経営陣交代と経営不振
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1930年に発生した昭和恐慌は、長引く不況で衰退しつつあった長野県の製糸業にさらなる打撃を与えた。県内の製糸業者には倒産・休廃業が相次ぎ、養蚕農家にも影響が拡大。製糸・養蚕業の低迷をうけて1930年11月には北信・東信地方の銀行を統合して発足した信濃銀行が開業2年7か月で破綻し、金融界にも動揺が広がっていった。 製糸業界が経営難に見舞われる中、越寿三郎は本業である製糸業の不振と自身の高齢・病気のため長年にわたって関係してきた信濃電気・信越窒素肥料の経営に当れなくなったとして両社から退くと決断した。報道によると、越は1929年12月ごろ、大手電力会社東邦電力の傘下にある東邦証券保有に対し、所有する信濃電気株式約3万5000株の売却を交渉した。東邦電力による買収は一時有力案と見られたものの、両者が主張する売買価格には開きがあったという。最終的に越は長野電灯経営者の小坂順造に信濃電気・信越窒素肥料両社の経営を引き受けるよう依頼し、その了解を得た。小坂は長野電灯創業者小坂善之助の長男で、政界では衆議院議員、財界では長野電灯社長(1923年就任)などを務める人物。小坂は越の持株を高値で引き取り、越個人の苦境を救ったという。信濃電気の大株主一覧によると、1930年9月末時点では筆頭株主が長野電灯(持株数6万4010株・持株比率19パーセント)になっている。 信濃電気・信越窒素肥料両社の経営を託された小坂順造であったが、濱口内閣の拓務政務次官に在任中(1929年就任)であり、会社経営にあたれない状況にあった。そこで小坂は、親交のある長野県出身の実業家で当時富士電機製造(現・富士電機)社長在任中の名取和作に信濃電気・信越窒素肥料両社の社長就任を依頼し、その承諾を得た。1930年4月30日開催の信濃電気株主総会において、越寿三郎・越泰蔵(寿三郎の次男)・小林暢・工藤善助の4名が取締役から退き、名取和作・花岡俊夫(花岡次郎の婿養子で小坂順造の義甥)・諏訪部庄左衛門(当時の長野電灯社長)ほか1名が取締役に就任。そして同日、社長名取和作・副社長小田切磐太郎・常務花岡俊夫という新経営陣が発足した。信越窒素肥料においても同年6月越寿三郎が社長を辞任し名取と交代している。 名取が社長に就任した1930年9月期の決算において、信濃電気は不況の深刻化に伴い電灯取付数が前期比1.5パーセント減となり、7月実施の電灯料金値下げと相まって大幅な減収を来して年率9パーセントへの減配を余儀なくされた。翌1931年(昭和6年)5月25日、濱口内閣の総辞職に伴い拓務政務次官の職を離れた小坂が名取に代わって社長に就いた。副社長の小田切は同年4月に退任しており、以後社長小坂・常務花岡俊夫という布陣となっている。小坂は同時に信越窒素肥料でも社長に就き、7月には長野電灯でも社長に復帰した。小坂が社長に就任した1931年9月期には需要減退の傾向著しく、信濃電気は年率6パーセントへのさらなる減配に追い込まれた。需要回復傾向が明らかになるのはその1年半後、政府による救済事業や金融業界好転の影響が及ぶ1933年3月期のことである。同期以後、利益率も回復に向かった。 この時期、傘下の信越窒素肥料はより深刻な経営不振に見舞われており、多額の欠損金を抱え操業開始以来1度も信濃電気に電力料金を支払えない状況にあった。経営改善策として人員整理と操業短縮を繰り返したが、1931年12月、工場の一時操業停止が断行された。信越窒素肥料の工場停止は信濃電気にとっては大口需要家の喪失を意味するため、社長の小坂は信濃電気本体に与える悪影響を回避すべく工場設備をそのまま他社へ貸与するという対策を講じた。貸与先は日本曹達(合金鉄製造)・理研マグネシウム(理化学興業傘下でマグネシウム製造)・電気化学工業(石灰窒素製造)の3社である。3社への貸与によって工場の操業が順次再開されると信濃電気にも電力料金が入るようになり、その経営改善にもつながった。
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