「みなと村」の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:37 UTC 版)
「奥武山捕虜収容所」の記事における「「みなと村」の形成」の解説
日本軍捕虜の帰還が段階的に進み、8カ所の捕虜収容所が閉鎖されていくのと同時に、米軍は沖縄の封鎖をゆるめ、46年8月から沖縄への帰還 (引揚げ) の門口が開かれる。久場崎桟橋とインヌミ収容所を玄関として1946年末までに11万人が沖縄島に帰還した。この引き上げの波が、日本軍捕虜と入れ替わるかたちで住民を新たに米軍の軍作業の担い手とするシフトを形成する。 戦時下において、日本軍の小緑飛行場 (那覇飛行場) 、読谷飛行場、嘉手納飛行場、伊江島飛行場、与那原飛行場、牧港飛行場を次々と請負った國場組創業者の国場幸太郎は、沖縄が地上戦で壊滅しているあいだは熊本に、また國場組従業員140人は国頭地方の山中に仮小屋をつくって避難し、「幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の日を迎えることができた」。 熊本で終戦を迎えた幸太郎は、正規の引揚げを待ちきれず、1946年7月に密航船で沖縄に帰還する。その年の12月、国場幸太郎は早々に今度は米軍から那覇港湾の那覇港湾作業隊の支配人に任命され、那覇軍港の港湾事業に特化した特別行政区「みなと村」の村長も兼任した。役場庁舎は同じ奥武山捕虜収容所がおかれていた奥武山の世持神社が使われた。 このようにして、1,500人あまりの奥武山捕虜収容所の日本軍捕虜が担っていた那覇軍港の港湾労働は、みなと村の2,000人規模の「那覇港湾作業隊」にスライドする形で継続された。
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