「みなと大橋」建設構想とは? わかりやすく解説

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「みなと大橋」建設構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 04:45 UTC 版)

柳都大橋」の記事における「「みなと大橋」建設構想」の解説

かつて新潟市中心部信濃川下流部に架かる萬代橋から下流側4 kmの間には左右両岸連絡する手段存在しなかったため、下流部周辺住民港湾関係者らは1919年大正8年)から約70年間にわたって萬代橋下流部連絡路建設求め運動展開し続けてきた。 さらにモータリゼーション勃興した1960年代以降港湾地域関連交通市内中心部流入して慢性的な渋滞引き起こすなど、市民生活経済活動などの面で大きな障害となりつつあったことから、新潟市内の政財界一部では自動車交通増大対応するため、萬代橋下流部への新橋梁架橋向けて協議進められ1965年昭和40年)には政財界関係者主催した市民大会において、信濃川万代島横断する有料道路みなと大橋」の架橋建設促進決議された。 その後第一次オイルショックなど紆余曲折経て1974年昭和49年秋にようやく建設構想具体案まとまったものの、事業主体を市が担うのか、あるいは県もしくは国が担うのか調整付かぬまま、建設促進していた当時新潟市長保守系渡辺浩太郎1975年昭和50年4月市長選落選し、代わって選挙戦から通行料金必要な有料橋異論唱えていた、革新系川上喜八郎当選し市長就任した川上同年12月市議会で「有料橋には強い疑問を持たざるを得ず在来案による有料みなと大橋建設断念したい」と建設事業凍結宣言した。 この決定により、みなと大橋との接続対応するため連続立体交差方式整備され東港線支線東港線バイパス:後に国道113号区間となる)の高架橋は、建設凍結から35年以上を経た現在に至るまで万国橋交差点付近高架途切れたままとなっている。

※この「「みなと大橋」建設構想」の解説は、「柳都大橋」の解説の一部です。
「「みなと大橋」建設構想」を含む「柳都大橋」の記事については、「柳都大橋」の概要を参照ください。

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