捕虜の犠牲と集団埋葬地とは? わかりやすく解説

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捕虜の犠牲と集団埋葬地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:39 UTC 版)

延吉捕虜収容所」の記事における「捕虜の犠牲と集団埋葬地」の解説

延吉捕虜収容所では、1945年の秋から46年春にかけて、飢餓や非衛生的な環境胸部疾患発疹チフス等の伝染病多く日本人死亡した死亡者1946年4月12日合同慰霊祭行った際に6876名、1948年6月までに8900余りとされる早蕨庸夫延吉捕虜収容所』では、第三病院死亡者1945年9月1946年4月末日)は1900名~2200名、646収容所死亡者1945年9月1946年5月17日)は約3000名、28収容所同時期)の死亡者数2000名~3000名(推定)としている。 遺体収容所附近仮埋葬されていたが、春が近づき解け荒らされるようになったため、1946年3月から4月にかけてソ連軍命令で、第三病院裏や、646収容所前(将校憲兵特務機関員ら)、28収容所(主に下士官一般兵の裏山にあわせて1万名の遺体埋める壕や穴が掘られた。 第三病院では日本人職員協議し作業班を編成し軍医看護婦加わり全員作業行ったソ連軍ブルドーザーは、ビル建設地下工事よりも大きな穴を、次々掘った直径50メートル深さ一〇二〇メートルはある巨大な墓穴だった。担架運ばれてきた遺体は、穴の底に降ろされ、しだいに積み上げられていった断崖の上には、終日一人僧侶立って読経上げていた。退院兵の中から、死亡者供養のために残ってくれた人であった三、四日で墓穴一杯になるころには、隣に次の穴ができ上がっていた。一つの穴に、どれほど遺体埋葬されたのであろうか。それを、だれも確認する余裕はなかった。だから、正確な数をつかむことは困難だが、七百体か八百体、もしかしたら千体近く入ったように、私には思えた太田正(著)『満州残留命ず』(草思社1984年7月埋葬地ソ連軍墓標慰霊碑)を建てたという証言もあるが、ソ連軍撤退後破壊されたのか今は何も残っていない。日本人埋葬地は、延吉人口にともない、現在は住宅地となっている。延吉北部丘陵に建つ延辺科学技術大学建設時に「主人のいない共同墓地だった」ため大量人骨出たことは広く知られている延辺大学科学技術学院は、この地で一番高い場所位置している。本館から見下ろすと、延吉市街が一望できるほど眺め良い。しかし、この場所を選んだのにはわけがある1991年大学設立時に市政府は金鎮慶総長に、市内土地推薦してきた。だが、金総長断った。「ここはあなた方土地なので、良い場所はあなた方暮らしその代わり私たちにはあの山をください」。よりによって、その山は共同墓地だった。みんなが反対したに違いない。しかし、金総長信念曲げず結局現在の場所になった工事中に、主人のいない墓からはものすごい量の人骨出たそうだ。 1972年日中国交正常化から間もない74年から76年わたって日中関係改善による中国政府配慮対す期待から、「旧満州国間島省延吉付近丘陵地遺骨収集に関する請願」が毎年国会出され議決されたが、遺骨収集事業公的な慰霊実現していない。 戦後三十年、ソ満国境初め三十八度以北の地に、日本繁栄をも知らず他界した人々は相当の数に上っている。これら、国外放置されている戦没者対す慰霊措置が行われて、初め戦後処理が行われたというべきである。ついては、終戦後ソ連軍連行され抑留中殉職あるいは殉難し、また、旧満州国間島省延吉捕虜収容所病死し同地丘陵地埋没された人々初め付近のソ満国境に眠る幾同僚同胞墓参並びに遺骨収集早急に実現されたい。(旧満州国間島省延吉付近丘陵地遺骨収集に関する請願 第二一四号、1975年) 延吉捕虜収容所日本人捕虜犠牲になり、市街地そばに埋葬され史実は、延辺歴史から抹殺されている。延辺発行され歴史書から、日本人捕虜犠牲に関する記述を見つけることはできない延吉では、捕虜収容所のほかに、フルハト河の河原、旧延吉神社裏、偕行社ドイツ教会隣接した場所などにも多く遺体埋葬された。引揚援護庁は、引揚げ完了する前の1947年ごろ、延吉における日本人死亡者数暫定1万8000余り公表している。 フルハト河の河原や旧延吉神社裏は、当時日本人土盛り墓がいっぱいだった。それが今は痕跡すらない。一体あの大量遺骨はどうなったであろう翌日延辺賓館の近く、旧拓殖公社建物にある延辺日報社を訪ね、呉泰鎬総編集長話したとき、大変ムードよかったので、土盛り墓の遺骨がどうなったたずねてみた。ところが呉さんは急に表情をこわ張らせ「それはもう過去のことです」と、強い口調はねつけた言外に「侵略者何を言うか。散々迷惑をかけておきながら」という強い怒り感じとった。

※この「捕虜の犠牲と集団埋葬地」の解説は、「延吉捕虜収容所」の解説の一部です。
「捕虜の犠牲と集団埋葬地」を含む「延吉捕虜収容所」の記事については、「延吉捕虜収容所」の概要を参照ください。

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