捕虜の犠牲と集団埋葬地
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「延吉捕虜収容所」の記事における「捕虜の犠牲と集団埋葬地」の解説
延吉捕虜収容所では、1945年の秋から46年の春にかけて、飢餓や非衛生的な環境、胸部疾患、発疹チフス等の伝染病で多くの日本人が死亡した。 死亡者は1946年4月12日、合同慰霊祭を行った際に6876名、1948年6月までに8900名余りとされる。 早蕨庸夫『延吉捕虜収容所』では、第三病院の死亡者(1945年9月~1946年4月末日)は1900名~2200名、646収容所の死亡者(1945年9月~1946年5月17日)は約3000名、28収容所(同時期)の死亡者数は2000名~3000名(推定)としている。 遺体は収容所附近に仮埋葬されていたが、春が近づき雪が解け、犬に荒らされるようになったため、1946年3月から4月にかけてソ連軍の命令で、第三病院裏や、646収容所前(将校・憲兵・特務機関員ら)、28収容所(主に下士官・一般兵)の裏山にあわせて1万名の遺体を埋める壕や穴が掘られた。 第三病院では日本人職員が協議し作業班を編成し、軍医・看護婦も加わり全員で作業を行った。 ソ連軍のブルドーザーは、ビル建設の地下工事よりも大きな穴を、次々に掘った。直径50メートル、深さ一〇~二〇メートルはある巨大な墓穴だった。担架で運ばれてきた遺体は、穴の底に降ろされ、しだいに積み上げられていった。断崖の上には、終日一人の僧侶が立って、読経を上げていた。退院兵の中から、死亡者の供養のために残ってくれた人であった。三、四日で墓穴が一杯になるころには、隣に次の穴ができ上がっていた。一つの穴に、どれほどの遺体が埋葬されたのであろうか。それを、だれも確認する余裕はなかった。だから、正確な数をつかむことは困難だが、七百体か八百体、もしかしたら千体近く入ったように、私には思えた」太田正(著)『満州に残留を命ず』(草思社、1984年7月) 埋葬地にソ連軍が墓標(慰霊碑)を建てたという証言もあるが、ソ連軍撤退後に破壊されたのか今は何も残っていない。日本人の埋葬地は、延吉の人口増にともない、現在は住宅地となっている。延吉北部丘陵に建つ延辺科学技術大学の建設時に「主人のいない共同墓地だった」ため大量の人骨が出たことは広く知られている。 延辺大学科学技術学院は、この地で一番高い場所に位置している。本館から見下ろすと、延吉市街が一望できるほど眺めが良い。しかし、この場所を選んだのにはわけがある。1991年の大学設立時に、市政府は金鎮慶総長に、市内の土地を推薦してきた。だが、金総長は断った。「ここはあなた方の土地なので、良い場所はあなた方が暮らし、その代わりに私たちにはあの山をください」。よりによって、その山は共同墓地だった。みんなが反対したに違いない。しかし、金総長は信念を曲げず、結局、現在の場所になった。工事中に、主人のいない墓からはものすごい量の人骨が出たそうだ。 1972年の日中国交正常化から間もない74年から76年にわたって、日中関係改善による中国政府の配慮に対する期待から、「旧満州国間島省延吉付近丘陵地の遺骨収集等に関する請願」が毎年国会に出され議決されたが、遺骨収集事業や公的な慰霊は実現していない。 戦後三十年、ソ満国境を初め、三十八度以北の地に、日本の繁栄をも知らず他界した人々は相当の数に上っている。これら、国外に放置されている戦没者に対する慰霊措置が行われて、初めて戦後処理が行われたというべきである。ついては、終戦後ソ連軍に連行され抑留中、殉職あるいは殉難し、また、旧満州国間島省延吉捕虜収容所で病死し、同地の丘陵地に埋没された人々を初め、付近のソ満国境に眠る幾万の同僚と同胞の墓参並びに遺骨収集を早急に実現されたい。(旧満州国間島省延吉付近丘陵地の遺骨収集等に関する請願 第二七一四号、1975年) 延吉捕虜収容所で日本人捕虜が犠牲になり、市街地そばに埋葬された史実は、延辺の歴史から抹殺されている。延辺で発行された歴史書から、日本人捕虜の犠牲に関する記述を見つけることはできない。延吉では、捕虜収容所のほかに、フルハト河の河原、旧延吉神社裏、偕行社、ドイツ教会に隣接した場所などにも多くの遺体が埋葬された。引揚援護庁は、引揚げが完了する前の1947年ごろ、延吉における日本人死亡者数を暫定で1万8000人余りと公表している。 フルハト河の河原や旧延吉神社裏は、当時日本人の土盛り墓がいっぱいだった。それが今は痕跡すらない。一体あの大量の遺骨はどうなったのであろう。翌日、延辺賓館の近く、旧拓殖公社の建物にある延辺日報社を訪ね、呉泰鎬総編集長と話したとき、大変ムードがよかったので、土盛り墓の遺骨がどうなったかたずねてみた。ところが呉さんは急に表情をこわ張らせ「それはもう過去のことです」と、強い口調ではねつけた。言外に「侵略者が何を言うか。散々迷惑をかけておきながら」という強い怒りを感じとった。
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