捕虜への強制労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:44 UTC 版)
スターリンはポツダム会談で、チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することを勧めるなど、捕虜を労働力としてしか見ていなかった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかった。 ヤルタ会談では、賠償は役務や現物による支払いで行われる役務賠償が合意された。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった。
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