捕虜女性の数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 01:30 UTC 版)
『宋史』によると、女真人将校たちは北宋の宮廷にあった財宝のほとんど全てを略奪した。徽宗の第9子の康王趙構(南宋の初代皇帝高宗)と、庶人に落とされていた哲宗の皇后孟氏(元祐皇后)らの数人のみが、運よく難を免れている。 靖康の変の結果、金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は、『開封府状』によると、宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫195名、族姫1241名、女官479名、宮女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性3319名の計11635名で、それぞれが金額を課された上で、洗衣院に入れられた。 また、金の李天民の記した『南征録匯』には、靖康元年12月初十日のこととして「宋主が二帥(粘没喝、斡離不)に面会しようとしたが、拒まれてしまった。そこで(金側の使者である)蕭慶へ恭順の意志を伝え、人や物を貢納することとした。宋朝の臣下たちは口々に抗議したが、(宋の官僚ながら金側につくこととした)呉幵と莫儔とは二帥へ宋主の意を伝え、そこで親王、宰執、宗室の娘各2人、また袞冕や車輅および宝物2千、また民間の女性や楽団の女性それぞれ500人を捧げ、また毎年に銀と絹を計200万両・200万疋を献上すれば、黄河以南の地を宋側が保持しても良いとの許しを得たのであった。なお、宗室の女性はそれぞれ二帥にささげられた。これは『武功記』に見える」と記録する。
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