那覇軍港と捕虜収容所とは? わかりやすく解説

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那覇軍港と捕虜収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:37 UTC 版)

奥武山捕虜収容所」の記事における「那覇軍港と捕虜収容所」の解説

1945年4月1日以降米軍上陸地点となった読谷村渡具知海岸とその読谷村全域で、米軍軍道拡張し物資補給兵站基地をはじめとした何百もの軍事施設建設した米陸軍記録では、1945年4月1日から6月30日までの間に推定200トン上の貨物沖縄に荷降ろしされた。これは1日平均22,200トン物資となる。6月7日米軍那覇港開港し港湾施設整備開始した6月末までには西海岸における大部分荷下ろし那覇港使用されるようになった那覇港と旧那覇市は、1944年10月10日十・十空襲那覇市街の9割が失われ沖縄戦後も旧那覇市大部分全体占領されたまま、住民立ち入ることのできない大規模な軍事領域となっていた。住民民間人収容所収容されており、また肉体労働適合する県内成人男性人口沖縄戦のために極めて低く、わずか9%であったそんななか米軍膨大な港湾業務を補うための安定した労働供給源として奥武山に捕虜収容所設置した1945年12月頃には宮古島から約8000人の捕虜移送されそれぞれ小禄奥武山、普天間嘉手納捕虜収容所収容された。奥武山捕虜収容所那覇軍港付随する同様に小禄捕虜収容所那覇エアベース (米軍那覇飛行場) の労務担っていた。 読谷村楚辺捕虜収容所では捕虜ストライキおこっているが、米軍捕虜収容所では基本的にジュネーブ条約沿った収容所運営なされており、国際赤十字査察もあった。

※この「那覇軍港と捕虜収容所」の解説は、「奥武山捕虜収容所」の解説の一部です。
「那覇軍港と捕虜収容所」を含む「奥武山捕虜収容所」の記事については、「奥武山捕虜収容所」の概要を参照ください。

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