ドイツのターラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 15:07 UTC 版)
「ターラー (通貨)」の記事における「ドイツのターラー」の解説
ターラー銀貨発行の絶頂期は16世紀末から17世紀、各地で多様なターラー(いわゆる「ローザー」、löser)が発行された時期だった。ハルツ山地のブラウンシュヴァイクで最初にこうしたターラーが発行され、以後の多くもこの地で発行された。ターラー銀貨のいくつかはサイズが大型化し、普通のターラー銀貨の16倍の大きさの物、重さ450グラム以上、直径12cm以上のものもあったが、その大型化の当初の理由はよく分からない。「ローザー」の名の由来は、ハンブルクで発行されていた10ダカットの価値の大型金貨「Portugalöser」からと考えられる。ローザー銀貨のいくつかはこの大型金貨と同様の価値を持ったが、すべてがその価値があったわけではない。結果的に、ローザーという言葉は1ターラー以上の価値のある大型硬貨の名となった。現在この種の大型銀貨はほとんど残っておらず、大きいものは数万ドル以上でコレクター間で取引される。これら大型銀貨は実際に取引に使われたものは少なく、多くは保存状態がよい。 神聖ローマ帝国では、ターラーはグルデン・グロッシェン・ペニヒなどといった各地の領邦の通貨を比べる基準として使われた。基準の17つはライヒスターラー(帝国ターラー、Reichsthaler)で、9分の1ケルンマルク(1ケルンマルクは233.856グラム)の重さの銀を含むものだった。1754年、10分の1ケルンマルクの銀からなるコンヴェンツィオンスターラー(Konventionstaler)が導入された。プロイセン王国は14分の1ケルンマルクの銀を含むターラー銀貨を使用していたが、プロイセンの勢力伸長とともに1837年の関税同盟ではプロイセン・ターラーが「南ドイツグルデン」(Gulden、7分の4ターラーに等しい)とともにドイツ南部やラインラントの通貨となった。1850年には、多くの領邦が自前通貨とともにこのターラーを用いていた。 1857年、オーストリア帝国がフェアアインスターラー(統一ターラー、ユニオンダラー、Vereinsthaler)を定め、ドイツ全土で通用するようになった。各地でこれにともないフェアアインスターラーが通貨となった(プロイセン王国のフロイセン・フェアアインスターラー、ザクセン王国のザクセン・フェアアインスターラーなど)。フェアアインスターラーは普墺戦争の結果1867年にオーストリア帝国での打刻が停止され、ドイツ統一後の1872年にはドイツ帝国でも金マルクに切り替えられた。 マリア・テレジア即位後に1741年に発行されたマリア・テレジア・ターラー(英語版)は欧州のみならず初期のアメリカ合衆国や中東各国でも通用し、20世紀前半まではエチオピアやオマーンの通貨となっていた。イタリア領エリトリアでは、1890年から1921年までエリトリア・タレーロが流通していた。
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