ドイツのイデオロギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:52 UTC 版)
詳細は「我が闘争」および「ナチズム」を参照 ヒトラーは自伝『我が闘争』(1925年)において、ドイツ人のための生存圏の必要性、すなわち東ヨーロッパ、特にロシアにおける新しい領土の獲得の必要性について論じていた。ヒトラーはそこにドイツ人を定住させることを構想していた。それは、ナチスの思想にもあるように、ドイツ人が「支配人種」を構成する一方で、既存住民のほとんどを根絶またはシベリアへ移送し、残りを奴隷労働者として使用する構想であった。ヒトラーは第一次世界大戦中の1917年の時点で既にロシア人を劣等人種と呼んでおり、ボリシェヴィキ革命によって、ユダヤ人がスラヴ人の大衆を支配するようになったと考えていた。ヒトラーの見解は、スラヴ人には自存自立する能力がないから、ユダヤ人の主人たちに支配されることになったというものであった。 ハインリヒ・ヒムラーらナチスの指導層は、ソ連に対する戦争はナチズムとユダヤ人ボルシェビズムの間のイデオロギー闘争であり、なおかつ、ナチス思想によれば優等民族であるアーリア人種で超人でもあるゲルマン人が、劣等民族であるスラヴ人の犠牲の上に、その領土を拡張することを保証するための戦争と考えていた。ドイツ軍の将校たちは、配下の兵たちに「ユダヤ人のボルシェビキの劣等民族」や「モンゴルの遊牧民ども」「アジア人の殺到」「赤い獣」と描写される人々を狙うよう指示していた。ドイツ兵の多くはナチス的な見方でこの戦争を捉えており、敵のソ連兵は劣等人種(人間以下)と見なしていた。 ヒトラーはこの戦争を急進的な見方で捉えており、この戦争を「絶滅戦争」(Vernichtungskrieg) と呼び、これはイデオロギー戦争であるとともに、人種戦争でもあると捉えていた。東欧の将来についてのナチスの見方は「東部総合計画」において、最も明瞭に成文化されている。占領した中欧およびソ連の住民は、その一部を西シベリアへ移住させ、奴隷化した上で最終的には根絶する。征服した地域にはドイツ人もしくは「ドイツ化」された住民を植民する。さらに、ナチスは彼らのユダヤ人絶滅計画の一環として、中欧と東欧のユダヤ人住民を一掃することも模索した。 1941年のキエフの戦いにおいてドイツが緒戦の成功を収めると、ヒトラーはソ連は軍事的に弱いとみて、すぐにでも征服できると考えた。10月3日のベルリン・スポーツ宮殿での演説で、ヒトラーは「我々がドアを蹴破っただけで、腐敗した建物は全体が崩れ落ちる」と述べた。したがって、ドイツは、ポーランド侵攻やフランス侵攻などで成功させた短期間の電撃戦を再度行うことを想定しており、長期戦には真剣に備えていなかった。しかしながら、スターリングラード攻防戦(1942~1943年)においてソ連軍が決定的勝利を収め、その結果としてドイツ軍が悲惨な状況に陥ると、ナチスの宣伝工作はこの戦争を、欧州になだれ込んでくる巨大な「ボルシェビキ」の遊牧民たちがもたらす破壊に対抗して、ドイツが西欧文明を防衛するための戦争と位置付けて描くようになっていった。
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