ヨーロッパ諸問題への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 14:43 UTC 版)
「マルティヌス5世 (ローマ教皇)」の記事における「ヨーロッパ諸問題への対応」の解説
教会大分裂は終わったが、ヨーロッパには数々の重大な問題が横たわっていた。1つ目はフランスとイングランドが争う百年戦争、2つ目は公会議で処刑されたヤン・フスの支持者であるフス派がボヘミアで起こした反乱(フス戦争)、3つ目は公会議の約束として新たな公会議を招集することである。 1つ目の問題である百年戦争に対し、教皇マルティヌス5世は1418年と1422年にフランスへ和平使節を派遣したがこれは紛争解決に何の効果も無かった。むしろ当初はイングランドとその同盟国ブルゴーニュの利害を担当することが多く、1426年にイングランド王ヘンリー6世の大叔父で面識があるヘンリー・ボーフォートを枢機卿に任命したり、1418年にブルゴーニュ公ジャン1世の甥ブラバント公ジャン4世と姪ジャクリーヌの結婚を許可したり、ジャクリーヌが離婚してグロスター公ハンフリー(ヘンリー6世の叔父)と再婚、グロスター公がネーデルラントを狙い始めるとベッドフォード公ジョン(グロスター公の兄)と阻止を働きかけたりしている。 1428年、グロスター公とジャクリーヌの結婚を無効とし、グロスター公がこれを受け入れてからはニッコロ・アルベルガティ(英語版)枢機卿と共に和平に向けて動いたが、マルティヌス5世の在世中は具体的な検討はされなかった。教皇死後の1435年にブルゴーニュの仲介でイングランドとフランスが講和会議に出席、アルベルガティ枢機卿も仲介役として出席したが、イングランドが会議を離脱。その後はブルゴーニュとフランスの和平を保証する立場に変わり、1420年にイングランド・ブルゴーニュが結んだトロワ条約の無効を宣言。フランス・ブルゴ-ニュ間のアラスの和約締結を後押しした。 2つ目のフス戦争はより厄介な問題であった。ボヘミア王ヴェンツェルがフス派を庇護していたため、1418年(または1419年)にヴェンツェルの弟であるジギスムントと共にヴェンツェルへ圧力をかけた上で、フス派弾圧を始めた。翌1419年にヴェンツェルが亡くなると、その地位をジギスムントが継承したが、この継承を認めないフス派が蜂起した。教皇は1420年3月にフス派討伐の十字軍勅書を発布し諸侯により討伐軍が編成されたが、多大な戦いの末にフス派の前に敗北した。翌1421年に再結集した十字軍もまた大敗し、以降フス派討伐の十字軍はしばらく組織されなかった。教皇や皇帝らはポーランド王ヴワディスワフ2世に圧力をかけ、王の甥でフス派軍の軍司令官ジギスムント・コリブトーヴィチをフス派から離脱・退去させた上で、1431年1月の教皇の逝去直前に十字軍を再度結集したが、8月に十字軍がフス派と対峙した際には、十字軍諸侯はフス派軍を前にして恐怖に駆られ、戦う前に敗走し大失敗に終わった。結局、フス戦争もその解決は教皇の死後に持ち越された。 3つ目の課題である公会議の招集に関し、マルティヌス5世はコンスタンツ公会議の教令を尊重し、1423年に次の公会議を開くべくパヴィアにおける開催を宣言したが、疫病の流行によってシエナへの開催地移転を余儀なくされた。しかしそこでも参加者が集まらなかったため、同公会議は開催されなかった。最終的にバーゼルでの公会議の開催が決定し、開催に向けた準備がなされていたが、開会を待たずに1431年2月20日に卒中で逝去した。他に東ローマ帝国(東方正教会)との対話も試みられたが、実を結ばなかった。 なお、フランスの圧力によって起こったアヴィニョン捕囚、及びその結末である教会大分裂の教訓(ペナルティ)から、これ以降現代に至るまでフランス人はローマ教皇に選出されていない。
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