ヨーロッパ諸国における受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:37 UTC 版)
「エドガー・アラン・ポー」の記事における「ヨーロッパ諸国における受容」の解説
ポーの作品は1844年12月、フランスの『ラ・コティディエーヌ』に分載されたギュスターヴ・ブレネーという人物による「ウィリアム・ウィルソン」の翻案で初めて他国語で紹介された。フランスではこれについで1845年8月、「盗まれた手紙」の翻案が『ル・マガザン・ピトレスク』に掲載されたが、これには原作者の名も翻案者の名も明かされていなかった。以後アルフォンス・ボルゲールスによる「黄金虫」(『イギリス評論』1845年11月)、ムーニエ夫人による「黒猫」「モルグ街の殺人」ほか数編の訳(『平和民主主義』1847年1月-1848年5月)など複数の翻訳が現れ、1853年にはアルフォンス・ボルゲールス訳『エドガー・アラン・ポー新選集』によって、初めてポー作品の翻訳単行本が刊行されている。これらの訳に刺激された象徴派の詩人シャルル・ボードレールは1848年7月、「催眠術下の啓示」の訳を『思考の自由』誌に発表し、以後断続的にポー作品の訳を発表、1856年に『異常な物語』の題で刊行した。ポーの作品に自己の文学的な規範を見出したボードレールは、これ以降1865年まで、あわせて1600ページにおよぶポーの翻訳を行い、彼の訳はヨーロッパにおいて定訳として扱われることになった。 これらの翻訳で紹介されたポーの作品はとくに象徴派の文学者たちに高く評価され、フランス19世紀末の美意識に多大な影響を及ぼすことになった。ボードレール自身の詩集『悪の華』にはポーの影響が認められる詩がいくつも含まれており、ボードレールからポーを教授されたヴィリエ・ド・リラダンはポーの美学に基づいて『残酷物語集』(1883年)『新・残酷物語集』(1888年)を執筆した。ステファヌ・マラルメは「ポーをよく理解するため」ロンドンに渡り、1875年には「大鴉」の翻訳をマネの挿絵入りで刊行しており、ユイスマンスも代表作『さかしま』のなかでポーの「天邪鬼」を賞賛している。より若手ではアンリ・ド・レニエ『生きている過去』、アンドレ・ジッド『ユリアンの旅』など、マラルメの「火曜会」の後進世代によってポーの影響下にある作品が書かれ、ポール・ヴァレリーも評論「『ユリイカ』をめぐって」でポーの思想を賞賛した。そのほか、ギ・ド・モーパッサンの「剥製の手」「墓」「オルラの旅」「幽霊」などいくつかの短編作品にもポーの影響が認められる。 イギリスでは1846年、「ヴァルデマー氏の病症の真相」を基にした海賊版の小冊子がロンドンで刊行され好評を博している。前述のように英米ではポーの評判は芳しくなかったものの、1845年にはイギリスの詩人ロバート・ブラウニングがポーの詩集『大鴉その他の詩』に高い評価を与え、ポーはそのことを後のブラウニング夫人となる女性詩人エリザベス・バーレットから手紙で知らされていた。1870年代にはイギリス人ジョン・H・イングラムによる作品集『エドガー・アラン・ポー作品集』と『エドガー・アラン・ポー ―その生涯と書簡と見解』が刊行され、これをきっかけにグリズウォールドの回想録によって歪められたポーの人物像を再検討する動きがヨーロッパ中に広まった。イギリスにおいてはこの時期にポーに親しんだり評論の対象にする文学者が現れ、詩人ではエドマンド・ゴス、スウィンバーン、テニソンなど、小説家ではコンラッド、コナン・ドイル、ワイルド、スティーブンソン、ハクスリー、D.H.ロレンスらがポーの詩や散文を愛読していた。 ロシアでの初翻訳は1847年に啓蒙雑誌『教育のための新文庫』誌で「黄金虫」だが、フョードル・ドストエフスキーは1861年に自身の雑誌『時代』でD・ミハイロフスキーという人物の翻訳による「告げ口心臓」「黒猫」「鐘楼の悪魔」を掲載しそれに序文をつけており、同年中に『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』も掲載している。ドストエフスキーはポー作品の異常な世界観やその洞察力、細密な描写に感銘を受けており、『罪と罰』の描写やエピソードにはポーからの影響が及んでいると考えられている。
※この「ヨーロッパ諸国における受容」の解説は、「エドガー・アラン・ポー」の解説の一部です。
「ヨーロッパ諸国における受容」を含む「エドガー・アラン・ポー」の記事については、「エドガー・アラン・ポー」の概要を参照ください。
- ヨーロッパ諸国における受容のページへのリンク