ヨーロッパ荘園の様々な形態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:18 UTC 版)
封建社会の法的・組織的な枠組みを荘園制とともに形づくる封建制がそうであるように、荘園構造もまた、封建的な特徴を示す社会に普遍的な一定現象であるとは言えない。経済状況の変化にともなって荘園経済は相当な発展を見せたが、それでも中世後期に至るまで、荘園が全く存在しないか、不完全でしか存在しない地域が残存し続けた。 また、すべての荘園が前述3種類の土地から構成されていたわけではない。平均してみれば、領地(領主の直轄地)は耕地可能な土地のおよそ3分の1を占有し、農奴の保有地はそれよりも広いというケースが多かった。しかし、領地(領主の直轄地)のみから成る荘園や、自由農民の保有地のみから成る荘園も存在していた。同様に、農奴の保有地と自由農民の保有地の割合には地域差が大きく、領地での農作業に係る賃金・労役への依存度を大きく左右した。 大きな荘園では(領地(領主の直轄地)での義務労役という大きな潜在的供給力を持つ領主がいれば、)農奴保有地の割合が大きかったのに対して、小さな荘園では、領地における耕地可能な面積の割合が大きくなりがちであった。自由農民の保有地が占める割合は、一定範囲内に収まっていたが、小さな荘園では幾分大きくなる傾向が見られた。 荘園は、地理的状況の面でも多様性が見られた。単一の村落からなる荘園はあまり見られず、多くは2個~数個の村落から構成されており、そのほとんどは他の荘園の一部と混在していた。このため、領主の所有地から離れた場所で生活する農民も少なくなく、このような農民は領地(領主の直轄地)で労役義務を果たす代わりに金銭納入を行うようになっていった。 農民の保有地が小地面から成っていたように、領地(領主の直轄地)も単一的な土地ではなかった。領地は、領主の居館を中心として、その近接地や資産建物、さらに自由農民や農奴の保有地の間を縫うように存在する小片の土地群から構成されていた。また、領主は、より広い範囲の生産物を供給しうるべく、幾らか離れた場所にある他の荘園を保有するだけでなく、隣接する荘園の財産を賃貸借することもあった。 荘園を保有していたのは、必ずしも上位領主へ軍役奉公(または代銭納)を行うような在俗領主ばかりではなかった。イングランドで1086年に編纂された統計大鑑ドームズデイ・ブックに残された記録から推計してみると、国王が直接支配した荘園は全体の17%を占め、さらに大きな割合(4分の1以上)を主教職や修道院が保有していた。聖職者の保有する荘園は、隣接する在俗領主の荘園よりもはるかに広大な農奴地を持っており、次第に拡大していった。 荘園経済を巡る社会環境から生まれる影響は、複雑であり、時には矛盾をはらむこともあった。高地では農民の自由が保たれるようになっていた(特に畜産は労働の集約化が弱まったため、農奴の奉仕を必要としなくなっていった)が、他方、ヨーロッパの幾つかの地域では、最も圧政的な荘園支配と呼ばれるような状況も見られた。その中にあって、東部イングランド低地では、スカンジナビア入植者の遺産の一部として、当時としては例外的とも言える農民の広範な自由が確保されていた。 同様に、貨幣経済の拡大は、労役の代わりの金銭納入が普及していくという形で現れた。しかし、1170年以降、マネーサプライの増大とそれがもたらしたインフレーションの結果、貴族たちは、賃貸していた土地や財産を取り戻すとともに、文字どおり減退してしまった現金支払の固定価値と同等の労役を再び課していった。
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