バンコクへの就航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 02:07 UTC 版)
1936年(昭和12年)11月より、日本の陸軍海軍、外務省、逓信省はタイ王国に対して航空協定締結を求めて おり、1939年(昭和14年)11月30日に、バンコクにおいて、「日本国泰国航空協定」がプレーク・ピブーンソンクラーム首相と駐タイ公使村井倉松との間で調印された。 1940年(昭和15年)6月より、東京―バンコク線が週一便の定期国際線として就航した が、就航当初はフランス領インドシナ総督府が領空通過を認めなかったため、インドシナ上空を避ける飛行ルートを選択した。その後、外務省とフランス領インドシナ総督府の間で交渉が進められ、1940年(昭和15年)12月にフランス領インドシナ領空通過と領内への離着陸が許可。同年12月5日からハノイ - トゥーラン - サイゴン - バンコク間を週一便運航することとなった。 なお、バンコク線の就航に伴い、大日本航空の路線は、バンコクに乗り入れていたイギリスのインペリアル航空、オランダのKLM、フランスのエール・フランスなどの国際線と接続することとなった。
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