バンコクIBFのドル化現象
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「オフショア市場」の記事における「バンコクIBFのドル化現象」の解説
1992年9月8日、バンコク・オフショア市場(BIBF)の開設が閣議決定された。恒常的に不足する国内貯蓄を海外から資金調達して補填する目的だった。取り扱い通貨は外貨のみに限定され、ユーロ・バーツの国内持ち込みは認められていなかった。 1993年3月2日、タイ銀行総裁を議長とする合同委員会がBIBF参加銀行を発表した。新規参入外国銀行が20行も承認された。新規参入外銀の場合、最低持込み金1億バーツという業務規制があり、開業後3ヵ月以内にこの条件を達成しなけれはならなかった。ほかに承認されたのは既存の外銀12行と、地場銀行15行であった。BIBFは16日に開設された。BIBFには個人も参加できたが、しかし貸付最低限が50万ドルという大企業向けの構造だった。金融機関はシンガポール・香港・アメリカの在外支店から外貨を調達した。地場銀行も新規参入外銀も、当初はシンガポールや香港のオフショア市場からの移転・書換という形で実績を上げざるを得なかった。これがBIBFの事業収益の低さに反映している。大企業は勅令でパブリック・カンパニーへの切り替えを強制され、認められた広範な資本調達手段でユーロ債を発行し、機関化していった。BIBFは投資顧問業務も担当した。 バスケット方式の管理変動相場制のもとで、バーツの対ドル相場(25.5バーツ前後)が安定的に維持されていた。海外の短期資金は専らバーツ金利の動向に鋭敏に反応した。バーツ金利が上昇し内外金利差が拡大すると、海外資金(USドル)が大量に流入した。為替持高を調整できない商業銀行のためにドルを中央銀行がバーツに交換、インフレ圧力を高めた。しかしこれは、政治的混乱が生じれば直ぐドルに戻って流出し国内金利を急騰させる構造だった。 実際は日中香港同時機関化を企図しての流出がおこった(アジア通貨危機)。ユーロは買占めが難しかった。
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