インドシナ総督として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:20 UTC 版)
「ジャン・マリー・アントワーヌ・ド・ラヌッサン」の記事における「インドシナ総督として」の解説
ラヌッサンは最初は1886年に医師としてインドシナに渡航し植民地研究にあたった。1891年にフレイシネ内閣によりインドシナ総督に任命される。当時のフランス領インドシナは巨額の財政赤字とヴァンタン蜂起などにより治安が悪化し、そのためにフランス資本の導入が妨げられ、コーチシナ以外の土地に関しては放棄論も浮上していた。ラヌッサンはアンナン・トンキン理事長官ポール・ベール(Paul Bert)の方針を継承して協同政策をとり、ベトナム人官吏の権限を強化し、フエ宮廷の北部ベトナム(トンキン)に対する宗主権を確認、村落共同体の自律性を維持させた。この政策により反フランス抵抗勢力は孤立し、1891年末までにその多くが鎮圧されることとなった。ド・ラヌッサンはラオスへの進出は積極的に進め、ランソン鉄道をはじめとした鉄道建設工事を大規模に開始させ、フランス資本の誘引に努めた。また租税制度を整備することにより財政赤字も解消させた。ラヌッサンの時代には港も拡張され、フランスの威光がシャム(現在のタイ王国)国境地帯にまで及び、さらには学術調査の奨励も行われたが、彼の手腕を妬み、先述の協同主義的政策に懸念を抱いた本国政府により1894年に解任されることとなった。ラヌッサンの方針はポール・ドゥメール総督(在任: 1897年–1902年)に引き継がれ、完成されることとなる。
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