露亜銀行とは? わかりやすく解説

露亜銀行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 15:25 UTC 版)

露清銀行」の記事における「露亜銀行」の解説

経営危機自力切り抜けることができなかった露清銀行は、他行との合併により打開しようとした。 まず、シベリア商業銀行との合併検討された。これは最終的に実現しなかった。1909年シベリア商業銀行頭取同行創設者息子であったが、以前露清銀行会計係務めていた。露清銀行コネクション頼ろうとしていた。 シベリア商業銀行1872年6月資本金240ルーブルエカチェリンブルク設立され増資繰りかえし1909年1月には1000万ルーブルとなった新株プレミアム充当され積立金500ルーブルもあり、さらに特別積立金130ルーブルあった。主要株主ドイツ銀行であり、議決権ドイツユダヤ資本握っていた。 1909年10月シベリア商業銀行との合併案は決裂終わった翌月から北方銀行Banque de Nord, ロシア語でいうСеверный банк との合併検討されるようになった北方商業銀行におけるコネクションは、設立時経営委員会席の多数ロシア人占めるものの、役員会ソシエテ・ジェネラル支配下にあった北方銀行ソシエテ・ジェネラルロシア子会社である。1901年9月18日資本金500ルーブルサンクトペテルブルク設立された。パリバパリ連合銀行協力得て1906年資本金倍増させたが、同年から露ウェスティングハウスによるサンクトペテルブルク市電敷設ファイナンスした。そして1909年までに49もの支店次の地域展開したサンクトペテルブルク周辺の他、南から順に現在でいうところのウズベキスタンアゼルバイジャンジョージアモルドバウクライナベラルーシリトアニアラトビア1910年8月北方銀行合併して露亜銀行(ロシア語: Русско-Азиатский банк)となった役員は席を露仏でほぼ半数ずつ分け合ったが、重要ポストはやはりフランス勢が占めた。そして、ロシア軍産業基幹部を次々と支配下においた。また、顧客バクー油田石油会社シベリア金鉱山会社などを持つ他、裾野が広い営業展開した1911年にレンスキー金鉱山会社株式購入し、元々経営参加していたギンツブルク商会シンジケート組んで株式分割した。後に露亜銀行はペテルブルク国際銀行とレンスキーの経営掌握した。 やがてロシア革命により支店整理統合された。1917年12月法令で露亜銀行は2ヶ月ほどかけて国立銀行編入された。ペテルブルク国際銀行も同様である。露亜銀行資本金3/4保有するフランス資本死に物狂いになった。まず義和団事件賠償金ボリシェビキに渡らぬよう中華民国弁済要請した。他には次を例とする権益を守らなくてはならなかった。中国関税収入協定により香港上海銀行と露亜1対香上2で分け合うもの、そして1916年契約したハルビン-ブラゴヴェシチェンスク鉄道敷設経営借款引き受けといったものであるシベリア出兵並行して銀行経営分裂し結果としてパリ支店本店格上げされた。 1924年9月22日張作霖ソ連協定したので、露亜銀行が決めていた東清鉄道経営陣ソ連政府派遣したメンバーにそっくり変わった。これをきっかけ満州支店取り付け騒ぎとなり、年明け資金枯渇した。もはや銀行フランス資本取り戻すことは困難となり、フランス人役員ロシア人席を譲るようになった1926年9月26日パリ外為市場500ポンド損失出して2日後に露亜銀行は清算された。

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