ソジェンとソジェナル
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「ソシエテ・ジェネラル」の記事における「ソジェンとソジェナル」の解説
1876年、イスマーイール・パシャへの借款を回収できなくなった農業信用銀行(Société du Crédit Agricole)が倒産した。この事件は50年後のクレディ・アグリコル誕生までにおいて、フランス農業金融に対する最初の試練であった。農業信用銀行はクレディ・フォンシエ(Crédit foncier de France)の子会社であったので、親会社フォンシエはスエズ運河運用純益の担保権を実行していた。フォンシエは1852年サビエル・ブラニキ(Xavier Branicki)が設立した。彼はポーランド立憲王国の貴族で、ロシアの圧制から逃れ、ボナパルト家やロスチャイルド家と親しくなった。フォンシエは開発業者がパリ改造の対価として受け取った土地を大規模に割引いて国策企業に成長した。このようなフォンシエが借款を回収せぬまま終わるわけがなかった。 1880年ドイツ帝国が北東アルザスの子会社を閉めるか分離するかせよと命令してきたので、1881年ソジェナル(Sogenal)を独立させた。一方でオスマン債務管理局が発足して債権回収の目途が立った。ソジェナルがドイツで勢力を拡大するにつれ、ドイツ系銀行が同局の開発利権に食い込んできた。1888年、ソジェンがオクタヴ・オンベルグ・パパを派遣してインドシナ銀行の重役を任せた。 三国干渉でフランス資本は広東に足がかりを得た。そして露清銀行の主導権を奪いかけたロシアを日露戦争が動揺させた。1906年、ソジェンはユニオン・ミニエールの設立に参加。1910年、子会社の北方銀行(Banque du Nord)を露清銀行と合併(露亜銀行)。ソジェンは主導権を奪い返そうとするが、思うようにはいかなかった。ロシアはオスマン攻めやポーランド分割のときからプロイセンと交渉をもっており、サンクトペテルブルクの中央銀行にロスチャイルドの代理人が送り込まれていた。 1913年、ソジェンはドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店を買収した。一方、インドシナ銀行の天津支店長だったペルノット(Joseph Pernotte)が創立計画を立てていた中国興業銀行(Banque industrielle de Chine)が同年に発足した。翌年に第一次世界大戦が勃発し、フランスは辛くも勝利した。ヴェルサイユ条約でアルザス・ロレーヌが戻ったのに、ソジェンとソジェナルは統合せず独立したままだった。中国興業銀行はロイズ銀行とコルレス関係にありながら資金難でペレール的な兼営銀行路線を突き進んだ。ソジェナルはドイツで支店を出し続け、1926年チューリッヒへ設置するまで勢いが続いた。ソジェンは1920年代に政府の景気を刺激されて成長できたが、世界恐慌には耐えかね、クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)と経営拡大を自制する合意に達した。
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