香港しか出口がない
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:04 UTC 版)
「インドシナ銀行」の記事における「香港しか出口がない」の解説
コーチシナの村々は無数の水路に面していた。それら水路は商業都市チョロンを結節点とした。水路をつかった貿易と金融はチョロンの華僑が支配していた。彼らがローズの言う年利200%でふっかけていたかというと極端な表現であった。しかしこの三毛作が当然のように行われている地域では一般的な利子が月ごと3-4%もついた。これを複利計算すると年利36-48%に相当する。コーチシナでは宗主国の諸法律により、銀行が債権回収に回りきれない数の小規模自作農が生まれていた。未収穫担保貸付の危険もあって銀行は指をくわえていた。それで華僑が貸していた。インドシナ銀行はコーチシナ政庁と折衝した。1876年4月21日の正式妥決をもって債権回収の目途が立った。その策とは、利子15%のうち3%を政庁の取り分とするが、それを原資に政庁が債務保証するというものである。政庁の赤字および債務者の身元混乱を防ぐため、貸付申請は債務者がいる村の官印と、村長および名士2名の署名を要した。これでも政庁にとっては過大な負担であったので、未収穫担保貸付は伸びなかった。高利貸しは追放されないどころか、低利の未収穫担保貸付を受けることで間接金融を営む始末であった。こうして華僑は米を買い付ける資金を蓄えた。インドシナ銀行は米輸出手形を買い取り、為替収支を黒字基調とすることができた。米は欧州でなく東アジアで消費された。するとサイゴン市場に欧州宛の手形は少なかった。このためサイゴン支店は、宗主国への利潤送金等に際し香港で欧州宛の手形を買った。 サイゴン支店は銀行券を華僑の間からコーチシナ全体へ流通させた。銀行券は額面が大きかったので専ら遠隔地同士での巨額取引に使われた。すると余った一定割合がピアストルへ兌換された。この割合は小さくない。華僑がピアストルを使う目的は、散らばった無数の小規模自作農から米を買い付けることにあった。インドシナ銀行は4-5月の一週間あるいは数日という短期間に集中して毎年10-20万ピアストルを払い戻した。華僑は米の収穫が終る初夏までに買い占めるが、旬をすぎて出荷量が落ち込み値上がりするのをねらって米を売った。インドシナ銀行は毎年の兌換という試練をくぐるため香港からピアストルを仕入れた。しかし極東において雑多な通貨の出回る中、ピアストルは通貨価値にプレミアムがつくほど人気があった。10万単位で香港のコルレス先に注文しても数万しか用意できないと言われたとき、サイゴン支店はコーチシナ政庁から国庫準備金を借り受けるしかなかった。1907年恐慌まで、アジア通貨危機はごくありふれたものだったのである。清仏戦争時の通貨危機は特に急であった。1883年6月に清の劉永福がフランス軍と開戦し、8月のユエ条約(アルマン条約)で安南がフランスの植民地となった。この秋からインドシナ銀行へ兌換請求が殺到した。冬までに30万ピアストルが流出した。その3/4が香港上海銀行経由で香港へ送られた。インドシナ銀行はロンドン・パリだけでなくサンフランシスコからも送料を負担して銀貨を調達した。こうしてアジアに電解精錬された銀貨がばらまかれたが、1881年まで固定相場1ピアストル=5.4フランであったものが、4.7フランへ急落していた。1884年8月にはコーチシナ政庁からトンキン遠征用に大量の兌換請求があった。インドシナ銀行は1885年4月までに246万5000ピアストルを払い戻した。インドシナ連邦が1887年10月に発足したころ、ピアストル相場は4フランを割り込んでいた。
※この「香港しか出口がない」の解説は、「インドシナ銀行」の解説の一部です。
「香港しか出口がない」を含む「インドシナ銀行」の記事については、「インドシナ銀行」の概要を参照ください。
- 香港しか出口がないのページへのリンク