香港での後半生
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香港での生活は困窮を極め、生活のため弟子を取って詠春拳を教えようと、あらゆる縁を頼って友人知人を尋ね歩いた。1950年5月、香港留学時代からの友人であった李民の計らいにより梁相が書記長を務める「港九飯店職工總會」で最初の稽古を開始、参加者は16名。7月には新しいクラスが開始され人数は30名を超えた。しかし参加者には脱落者が多く、最終的に残ったのは後に「標指王」と呼ばれた梁相と「尋橋王」と呼ばれた駱耀の2人だけであった。 脱落者の続出に葉問は、学生時代に培った現代科学の明快で合理的な考え方に基づいた教授方法を採用しようと決意。中国武術が旧態依然とした伝統的な指導方法を用いていた時代に、科学的な視点で合理的に指導するのは異例の出来事である。それによって気 、陰陽 、五行 、八卦 など実証することの困難な形而上学に終始する東洋哲学から脱却し、理解しやすく論理的な指導を実践した(詳細は「詠春拳」を参照)。この初期に弟子であった者には、標指王・梁相、尋橋王・駱耀、小念頭王・徐尚田、講手王・黄淳樑(英語版)がおり、彼らは詠春四大天王とも葉問四大弟子とも呼ばれ、詠春拳の普及に寄与し、やがて葉問派詠春拳は香港で一大門派へと発展していった。また1953年には13歳のブルース・リーが入門。5年間葉問のもとで修業している。 香港に来たばかりの頃は大陸と香港の往来も自由であり、家族はしばしば葉問のもとを訪れている。家族を呼び寄せるため、手始めとしてまず妻が香港に移住するための身分証を申請、受け取って一旦仏山に戻った。しかし1951年元日から大陸と香港の国境が突如封鎖され、出国制限が施行されると、家族に会うことがかなわなくなった。その後葉問は1人の女性と暮らし始め、女性との間に息子葉少華が生まれている。また香港ではアヘンを吸っていたという。 1960年には仏山で妻張永成が病死、1962年長男葉準と、次男葉正がともに香港へ密航。再会した父葉問は香港で職をみつけた息子達に詠春拳を教え始める。長男葉準が37歳の時であった。90歳を超え現在は世界詠春聯會の永遠栄誉主席を務める葉準によると、生前の葉問は争いごとを避け”カンフーは喧嘩のためのものではない。他人を虐げるためにそれを使えば、勝っても負けてもそれはただの負けでしかない”と考えており、「これは父親の理念であり真の武術家ならみな心得ていることです」としている。
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