割引へ割り込み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:04 UTC 版)
1865年11月26日、コーチシナ総督のローズが植民地大臣へ植民地銀行の設立を提案した。高利貸しが農民へ年利200-300%で貸しているから、植民地銀行が20%ほどで貸し付けて行政制度を確かなものとしようという趣旨であった。 1872年2月15日、クレッセルという素性の分からない男が植民地省へ「サイゴンに発券銀行を設立する計画書」を書き送った。クレッセルはローズと同じく「資本の極端な高価」を動機としたが、実際問題も指摘した。 まずイギリスとの競争である。コーチシナは香港・シンガポールを中心とするピアストル通貨圏であった。そして香港上海銀行、チャータード銀行、オリエンタル・バンクといったイギリス系銀行は、香港・シンガポールからサイゴンへ資金をもちこみ支店を出していた。そこでクレッセルは、競争力を確保すべく、設立する植民地銀行の経営にフランス政府は原則として不干渉であるべきとした。インドシナ銀行とは対照的に、概要でふれたマルティニク銀行、ガドループ銀行、レユニオン銀行、ギアヌ銀行、セネガル銀行は、いずれも完全な国家統制を受けた。 プレイヤーにはイギリス系銀行のほかにパリ割引銀行もあった。植民地銀行を出すにしてもパリ割引銀行が収益の期待できる業務を全ておさえていた。そこでクレッセルは、植民地銀行の設立に際してパリ割引銀行の協力を得ることが望ましいと述べた。彼はこの点、パリ割引銀行に極東植民地全てを管轄する支店を設立させる第一案と、パリ割引銀行がそれを辞退した場合に独立して資金を結集するための第二案を示した。植民地銀行は1851年法で出店を植民地に制限されていたが、第二案はインドシナ銀行本店をパリに出すものとした。また、この第二案における業務範囲についてクレッセルは具体的事項を冗長に列挙し、要は無制限であるべきとしたのである。この第二案は結果的に採用されなかった。しかし、結局は役員会をパリの大株式銀行が支配することになった。 1872年6月初頭、植民地省とパリ割引銀行は創設をめぐり接触した。8月20日、パリ割引銀行はクレッセルの第二案に相当する提案を書き送った。同行は1873年3月15日付役員15人の連名書簡で、植民地大臣へその行名をもってインドシナ銀行の設立を正式に提案し、定款の準備まで申し出ている。この3月15日から1874年夏まで交渉が中断しており、しかし中断と再開の理由はよく分かっていない。同年10月21日、商工信用銀行が第二案相当の提案をした。翌日、パリ割引銀行から第一案相当の提案がなされた。コーチシナ金融市場を苦労しながら開拓したパリ割引銀行側から、競争相手の商工信用銀行に有利な提案がなされたことになる。不思議な提案がなされた理由は知るすべがない。権上の資料閲覧希望に対し、パリ割引銀行後身のパリ国民銀行(BNP)が「1889年以前の資料は全て失われました」と述べている。10月末から11月初頭にかけて、植民地省は困惑しながらもパリ割引銀行と商工信用銀行の協調を斡旋した。そこでクレッセルの第一案に基づく両行対等原則ができあがった。そこからの定款をめぐる手続には何の障害もなく、そのまま1875年1月21日の大統領デクレでインドシナ銀行は認可された。 インドシナ銀行創設株は合計で16,000株、しめて800万フランであった。パリ割引銀行と商工信用銀行はそれぞれ半分を発行した。具体的な主要株主とその保有株数は次のとおり。パリ割引銀行の頭取・役員・監査役らが3,555、パリバが3,000、200家族のミラボーが300、商工信用銀行が1,200、その頭取・副頭取・役員ら7名が1,250、商工信用銀行に創立されたマルセイユ商工信用銀行が600、フランス・エジプト銀行が1,000、その役員1名が300、リヨン預金銀行の頭取・副頭取・役員・監査役8名およびリヨン居住者が1,200、Armand Donon グループのパリ金融社が800、貴金属取引を専門とする個人銀行アラール(A. Allard)が600、ストラスブール資本が425であった。
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