ドゥメルグ内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 13:39 UTC 版)
「スタヴィスキー事件」の記事における「ドゥメルグ内閣」の解説
2月9日、前大統領ガストン・ドゥメルグ (Gaston Doumergue) が、5人もの首相経験者を閣僚に迎えた挙国一致に近い体制の新内閣を組織して、事態の収拾を図った。しかし同内閣は右派寄りの陣容であった(半ファシズムとまで呼ぶ研究者もいる)ため、今度は左派勢力が反政府運動を展開した。共産党はドゥメルグの組閣当日に、パリで内閣に反対する一大示威運動を行い、これを阻止しようとした警官隊と激しく衝突。流血の惨事を引き起こした。2月12日には、社会党や共産党、労働総同盟らの主導により、約450万人の労働者が24時間の全国的ゼネストを決行、また3月5日には「反ファシズム知識人監視委員会」が結成されるなど、左派勢力の巻き返しが図られた。これを契機に共産党と社会党は接近し、のちの人民戦線の成立に繋がった。
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