赤軍元帥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 00:55 UTC 版)
「ミハイル・トゥハチェフスキー」の記事における「赤軍元帥」の解説
1921年3月にはクロンシュタットで水兵の反乱、5月にはタンボフ州での3万人の農民蜂起などがあったが、いずれもトゥハチェフスキーがこれを鎮圧。1924年にはレーニンが死去し、スターリンがその後継として独裁権力を掌握しはじめ、1925年にはスターリンの腹心のクリメント・ヴォロシーロフが陸海軍人民委員(のちの国防人民委員)になり、反スターリン的またはその見なされる将校たちが多数追放されはじめたが、内戦時代からの国家的英雄であるトゥハチェフスキーにはさすがのスターリンも手が出せず、1925年から1928年までの間、トゥハチェフスキーは赤軍参謀長に就任し、1931年からは陸海軍人民委員代理兼兵器局長に就任する。この間、赤軍再編成や機械化部隊・空挺部隊などの導入など、一貫して赤軍の機械化・近代化につとめ、その運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たした。こうした功績により、1934年からは共産党中央委員会委員候補に選出され、1935年にはヴォロシーロフら4名とともにソ連赤軍最初の元帥の一人となった。しかしスターリンは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}相変わらずポーランド・ソビエト戦争時の恨みを抱き続け、またトゥハチェフスキーがソ連軍に多大な功績を残して国内外からスターリンを差し置いて脚光を浴びるのを見るたびにスターリンは自尊心を傷つけられ、自分の独裁者としての地位さえも脅かしかねないと危機感を抱くようになっていく[要検証 – ノート]。トゥハチェフスキーはスターリンにとってもっとも不愉快な人物となり、ついにスターリンはその抹殺を目論むようになる。
※この「赤軍元帥」の解説は、「ミハイル・トゥハチェフスキー」の解説の一部です。
「赤軍元帥」を含む「ミハイル・トゥハチェフスキー」の記事については、「ミハイル・トゥハチェフスキー」の概要を参照ください。
- 赤軍元帥のページへのリンク