赤軍のブダペストへの進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:29 UTC 版)
「ブダペスト包囲戦」の記事における「赤軍のブダペストへの進出」の解説
1944年10月29日、赤軍はブダペストへの攻撃を開始し、2つに分けられた1,000,000名以上の赤軍将兵は迅速にブダペストへと進撃した。赤軍の作戦はドイツ軍・ハンガリー軍の残存部隊をブダペストから駆逐することであり、1944年11月7日、赤軍・ルーマニア軍はブダペスト旧市街東20キロ郊外に達していた。12月19日、休養と再編成の後、赤軍は攻撃を再開、12月26日には最後に残っていた連絡路であるブダペスト・ウィーン間街道を赤軍が切断、このためブダペストは包囲されることとなった。この一連の攻勢のさなか、ハンガリー「国民指導者 (Nemzetvezető)」サーラシ・フェレンツは12月9日にブダペストから逃亡した。 ブダペスト包囲網下に残ったのはドイツ将兵33,000名、ハンガリー将兵37,000名、民間人800,000名。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはブダペストを要塞都市と宣言、包囲網の突破脱出を禁じ、第9SSアルペン軍団司令官カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ(英語版)親衛隊大将を守備隊の最高指揮官に任命した。 東部中央ヨーロッパ(英語版)最大都市であるブダペストはヨシフ・スターリンの大きな目標であり、ヤルタ会談の開催が近づきつつある中、スターリンはイギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに彼の力を誇示したいと考えていた。 1944年12月29日、包囲網完成を受けてソビエト第2ウクライナ方面軍司令官マリノフスキーはブダペストに降伏を勧告するために特使2名を派遣した。しかし、特使は戻ることは無かった。このことについては、特使が赤軍により故意に射殺されたとドイツ・ハンガリーの歴史家の一部は主張しており、この点についてはソ連内でも広い議論が存在している。また、他の意見では特使らは帰り道の途中、誤射されたと主張しているが、いずれにせよ、これを降伏の拒絶と判断した赤軍はブダペストへの攻撃を開始した。
※この「赤軍のブダペストへの進出」の解説は、「ブダペスト包囲戦」の解説の一部です。
「赤軍のブダペストへの進出」を含む「ブダペスト包囲戦」の記事については、「ブダペスト包囲戦」の概要を参照ください。
- 赤軍のブダペストへの進出のページへのリンク