赤軍の東プロイセン侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 02:39 UTC 版)
「マリオン・G・デーンホフ」の記事における「赤軍の東プロイセン侵攻」の解説
この後、オックスフォード大学で6か月間学び、所領の管理のために東プロイセンに戻ったのは1938年のことである。1944年のヒトラー暗殺計画に失敗した後、1945年1月にソ連赤軍が東プロイセンに侵攻(東プロイセン攻勢)。デーンホフはフリードリヒシュタイン城と土地を棄て、馬に乗って一人、西側への逃亡を開始した。凍てつく寒さのなか、2千キロを6週間かけて走り続け、ハンブルクにたどり着いた。1962年に出版され多くの言語に翻訳された『もう誰も口にしない名前』(邦題『喪われた栄光 ― プロシアの悲劇』)には、住民が慌ただしく住み慣れた土地を引き払う様子が、その後の苦難とともに描かれている。この後、ソ連・ポーランドに併合されて失った祖国に対する愛を、デーンホフは、「おそらく、最大の愛は、所有することなく愛すること」と表現し、50年後にもなお、「私の祖国は東プロイセン。なぜなら、失われた風景、自然、動物たちが恋しいから」と語っている。
※この「赤軍の東プロイセン侵攻」の解説は、「マリオン・G・デーンホフ」の解説の一部です。
「赤軍の東プロイセン侵攻」を含む「マリオン・G・デーンホフ」の記事については、「マリオン・G・デーンホフ」の概要を参照ください。
- 赤軍の東プロイセン侵攻のページへのリンク