戦間期:1915~1944年
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「グローバル金融システム」の記事における「戦間期:1915~1944年」の解説
経済学者は第一次世界大戦の始まりを「外国為替市場の純潔時代の終わり」と呼ぶ。第一次世界大戦が不安定化と麻痺を招いた最初の地政学的紛争であったからである。1914年にドイツがフランスやベルギーに宣戦布告したのを受けて英国がドイツに宣戦布告したのは8月4日のことであった。その数週間前からロンドン外国為替市場は混乱し始めていた。欧州の緊張と政治の不確実性が高まったため、投資家は流動性を追い求め、商業銀行はロンドン割引市場で大量に借り入れ始めた。マネー市場が逼迫するにつれて、割引貸出業者は、英ポンド手形を割り引いて新規に貸し出すよりも、イングランド銀行に手形の再割り引きを求めて手形を準備金に替え始めた。イングランド銀行は3日連続で割引率(政策金利)の引き上げを余儀なくされた。割引率は7月30日の3%から8月1日の10%に引き上げられた。外国人投資家は、新たに満期を迎える証券を償還するためにロンドンに送金する資金をポンドの購入で賄った。ポンドに対する突然の需要により、ポンドは多くの主要通貨に対し金価格を超えて増価した。やがてフランスの銀行がロンドンの口座を現金化し始めると、ポンドはフランスフランに対して急激に減価した。ロンドンへの送金はますます困難になり、為替レートは1ポンド6.50米ドルの記録的水準に達した。支払い猶予と長期銀行休業の形で緊急措置がとられたが、その効果はほとんどなかった。金融契約を非公式に交渉できなくなり、輸出禁止措置により金を輸出できなくなったためである。1週間後イングランド銀行は外国為替市場の行き詰まりに対処するため、大西洋を越えた支払いの新しい経路を設けた。市場参加者は英国に送金するために、指定されたイングランド銀行のカナダ財務大臣の口座に金を預け、その代わりに1ポンド4.90ドルの為替レートでポンドを受け取ることができるようになった。その後2か月間にこの経路を通じておよそ104百万米ドルが送金された。しかし、ポンド手形を受け取る商業銀行に対する救済が不十分だったため、ポンドの流動性は最終的に改善しなかった。ポンドが世界の準備通貨であり主要通貨であったため、市場が流動性を失い商業銀行がポンド手形の受け取りを躊躇したことで通貨市場が麻痺した:23–24。 英国政府はロンドン外国為替市場を復活させるためにいくつかの措置を試みた。そのうち最も目覚ましいものは9月5日の措置である。これは、以前に実施した支払い猶予を10月まで延期するものであり、戦争が終わるまで返済しなくてよい資金をイングランド銀行が一時的に貸し出し、通貨取引の未払金を決済させることを認める措置であった。この措置の結果、ロンドン市場は10月中旬までに適切な機能を取り戻し始めた。しかし戦争は外国為替市場にとって不都合であった。たとえば、ロンドン証券取引所が長期に閉鎖されたこと、輸出の生産から軍事物資の生産に移行するために経済資源が配置転換されたこと、そして貨物と郵便で無数の混乱が生じたことなどである。英ポンドは戦争中でも全般的に安定していた。英国政府が、民間に通貨取引の自由を認めつつ、ポンドの価値に影響するために様々な措置をとったからである。すなわち、外国為替の公開市場に介入し、戦争遂行のための資金をポンドでなく外貨で借り入れ、国際資本移動を規制し、そして輸入の一部を制限した:25–27。 1930年に国際決済銀行(BIS)が設立された。BISの主な目的は、1919年のヴェルサイユ条約で課されたドイツの賠償金の支払いを管理することと、全世界の中央銀行の銀行として機能することであった。各国は準備金の一部をBISへの預金として保有することができる。またBISは中央銀行の協力と国際金融問題の研究のためのフォーラムとしても機能する。さらに国家間の資金決済に関して一般的な管財と促進の機能も担う:182:531–532:531–532:56–57:56–57:269。
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