ボヘミアとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 09:49 UTC 版)
「ボルコ1世スロヴィ」の記事における「ボヘミアとの戦争」の解説
1290年代はまた、ボルコ1世にとって隣国ボヘミア王国との関係悪化に悩まされた時期だった。両者の関係がなぜ悪化したのかは不明だが、彼の野心が原因だったとされる。ボルコ1世は領土防衛のため、公国での集中的な要塞建設を断行した(特にボヘミアとの国境付近であるシフィドニツァ、ヴレン、スチェゴム、カミェンナ・グラなどが得に強化対象だった)。この後、ボルコ1世はヘンリク4世がヴロツワフ司教区に与えていたニサ=オトムフフ公国の支配権を奪取しようと試みた。 ボルコ1世の傲慢な野心に怒ったヴロツワフ司教ヤン・ロムカは、公爵に対して自分の使える最大の切り札を使った。1294年、ボルコ1世は破門され、その全領土が職務停止状態に置かれた。この強硬措置に屈し、ボルコ世は自分の要求を撤回し、占拠していた司教館を解放せざるを得なくなった。 ボルコ1世とボヘミア王ヴァーツラフ2世との緊張関係は続き、1295年には両者は交戦状態に陥った。ボヘミア王は敵が大した抵抗を見せることはないと考えていたが、ヤヴォル公の堅固な防衛戦展開に直面して驚かされることになった。このボヘミアとの戦争において、ボルコ1世は自らが築いた要塞を効果的に使うことができ、カミェンナ・グラの要塞でボヘミア軍を足止めした。さらにボルコ1世は巧妙な政治家としての面も発揮した。ボヘミア軍の進軍を押しとどめた直後、公爵は自分の領土を教皇ボニファティウス8世の保護下においてもらい、ヴァーツラフ2世が和解を選ぶしかない状況を作り出したのである。和平協定はおそらく1297年の年明けに結ばれた。ボルコ1世は同年6月2日にプラハで挙行されたヴァーツラフ2世の戴冠式に出席している。
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