ボヘミアの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:12 UTC 版)
プロイセン軍はオーストリアの首都ウィーンを目指し、その前地となるボヘミアは主戦場となった。 この戦争の主体勢力であったプロイセン・オーストリア両国の間にはリーゼン山脈およびエルツ山地があり、プロイセン軍はこれらの山脈を越えてボヘミアへ侵攻した。オーストリア軍ではリーゼン山脈越えに対応するために本隊を中間地点のオルミュッツ要塞に配置し、一部をプラークに進出させて情報を集めた。プロイセン軍は6月5日頃、オーストリア軍は9日頃から集結を終えた。 この方面のプロイセン軍は3個に別れて下記へ集結した。エルベ軍46,000人はトルガウ付近 第1軍93,000人はゲルリッツ付近 第2軍115,000人はナイセ付近 15日にはザクセン王国に最後通牒を送って拒絶され、16日にはエルベ軍が進発してザクセンに侵入して18日に首都ドレスデンを占領した。これに先立ってオーストリア側についたザクセン軍はアルベルト親王の指揮で本国を離れてボヘミアへ移動してオーストリア第1軍団と合流していた。プロイセン軍は分進合撃を企画してボヘミアへ進撃した。オーストリア軍のベネデック元帥はドレスデンの陥落より、この方面がプロイセン軍主力とみなしてオルミュッツを離れてエルベ川上流のヨーゼフシュタット(チェコ語版)要塞まで前進した。19日、プロイセンのエルベ軍は第1軍団とギッチンで合流すべくく東進し、ランブルクを経由して国境を越え、25日頃にはボヘミア平野の北端ガベル市に到達した。プロイセン第1軍団は集結地ゲルリッツを進発してフリードラント、チッタウの山地を越え、オーストリアによって破壊された鉄道を修理しながら25日にボヘミア盆地のライヘンブルクへ到達してエルベ軍と併進態勢を取った。
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