ボヘミア・プファルツ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 06:20 UTC 版)
「ラーコーツィ・ジェルジ1世」の記事における「ボヘミア・プファルツ戦争」の解説
強硬なカトリックに傾いたハプスブルク家に対し、プロテスタントが大半を占めるボヘミア貴族が蜂起した。フェルディナーンド2世がボヘミア王位を継いだ後の1618年5月22日、ボヘミア貴族たちはプラハ城になだれ込み、カトリックの顧問官らを窓から投げ落とした(第2次プラハ窓外放出事件)。そして彼らはハプスブルク家に対する反乱を起こすにあたり、プロテスタント諸国に加勢を求める使節を送った。 ハプスブルク家の反プロテスタント政策は、ハンガリーのプロテスタントの指導者となっていたラーコーツィ・ジェルジにとっても忌まわしいものだった。彼はベトレン・ガーボルを急き立てて、ボヘミアの同胞を救うため抗争に介入した。またジェルジは、1619年夏からハイドゥーク部隊を雇い入れ始めた。上ハンガリーのハプスブルク軍司令官ドーチ・アンドラーシュは、ラーコーツィ家とベトレン家の仲を裂こうとして、フェルディナーンド2世を動かしてラーコーツィの領地をベトレンに与えさせようとした。ベトレン・ガーボルはこれを拒絶するとともに、ハプスブルク家が直接支配する王領ハンガリーへ侵攻する決意を固めたことをラーコーツィ・ジェルジに伝えた。ベトレンの後顧の憂いを断って援護しようと、ラーコーツィ・ジェルジは対立公ドルゲスをとらえようとしたが、ポーランドへ逃げられてしまった。その後、ラーコーツィ・ジェルジはカッサへ向かい、9月5日に福音派やルター派の市民を説得して降伏させた。翌日、彼の配下のハイドゥークが3人のイエズス会士、メルヒオル・グロジェツキ、マルコ・クリジン、ポングラーツ・イシュトヴァーンを拷問の末に殺害した。 その後ラーコーツィ・ジェルジはシャーロシュパタクに戻り、9月17日にベトレン・ガーボル率いるトランシルヴァニア公国軍と合流した。彼らはカッサに入り、そこでベトレン・ガーボルが上ハンガリーの貴族や都市の代表を集めて議会を開いた。9月21日、議会はラーコーツィ・ジェルジを上ハンガリーの司令官に選出した。彼はカッサを本拠地に定めた。一方、ポーランドのドルゲスはコサックなどの傭兵を集め、11月21日にゼムプレーン県に再侵攻してきた。ラーコーツィ・ジェルジはこれを止めようとしたが、11月23日にフメンネーの戦いで敗れた。ウィーンを包囲していたベトレン・ガーボルは、ラーコーツィ・ジェルジの敗報を聞いてハンガリーに引き返した。彼はカッサの市民にあてた手紙の中で、ラーコーツィは若く経験のない将軍だといって、その敗北をなじっている。 ドルゲスの軍はカッサ周辺の地域を荒らしたが、街を攻略することはできなかった。ラーコーツィは、地元の人々の動員を命じた。年末になると、ドルゲスの配下のコサック兵がハンガリーから帰って行ったので、ドルゲスも翌年初頭にポーランドに撤退していった。10月、フェルディナーンド2世の軍がプレスブルクを包囲したが、ラーコーツィが急行して包囲を解かせた。しかし11月8日、ボヘミアで起きた白山の戦いで、ボヘミアプロテスタントの反乱軍は皇帝軍に完敗し、致命的な損害を被った。カトリック軍の将軍ブッコワ伯が返す刀で上ハンガリーに侵攻してきたので、ベトレン・ガーボルらは1621年前半の段階ではカッサまで後退を強いられた。大部分のハンガリー貴族はフェルディナーンド2世との和解を模索し始めたが、ラーコーツィはベトレンに忠実であり続けた。フェレク(現フィラコヴォ、スロバキア)でベトレンの敵対者が蜂起したとき、ラーコーツィは4月にこれを包囲したが、降伏させることはできなかった。8月、ベトレンはフェルディナーンド2世に対する反撃を始めた。ラーコーツィはこれに同行してプレスブルクを包囲したが、8月下旬にはシャーロシュパタクの家族の元に帰ってしまった。1か月後、ベトレンの命令でラーコーツィは前線に戻ってきた。 1622年1月、ベトレンとフェルディナーンド2世は和平を結んだ。このニコルスブルクの和約で、ベトレンはアバウーイ、ベレグ、ボルショド、サボルチ、サトマール、ウゴチャ、ゼムプレーンの7県を死ぬまで領有することを認められた。
※この「ボヘミア・プファルツ戦争」の解説は、「ラーコーツィ・ジェルジ1世」の解説の一部です。
「ボヘミア・プファルツ戦争」を含む「ラーコーツィ・ジェルジ1世」の記事については、「ラーコーツィ・ジェルジ1世」の概要を参照ください。
- ボヘミア・プファルツ戦争のページへのリンク