ボヘミア・プファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争):1618-1622
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「三十年戦争」の記事における「ボヘミア・プファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争):1618-1622」の解説
オーストリア・ハプスブルク家では1612年に新皇帝となったマティアスは仲裁者型で意志が弱かった。シュタイアーマルク公フェルディナントが1617年にフェリペ3世とエルザスをスペインに譲るのと引き換えに帝位継承権を獲得することを、マティアスは阻止できなかった。 ボヘミアではプロテスタント等族が優勢であり、マティアスの兄であり前皇帝であるルドルフ2世が公布していた勅許状をめぐり紛争となっていた。マティアスはフェルディナントとボヘミア王の王位を譲ったが、フェルディナントはイエズス会の教育を受けた熱心なカトリックであり、プロテスタント弾圧を開始した。 1618年5月23日、弾圧に反発した急進派の貴族が皇帝代官マルティニツとスラヴァタをプラハ王宮の窓から突き落とすというプラハ窓外投擲事件が起きた。これが三十年戦争の始まりである。 ボヘミア王フェルディナントはまだ皇帝ではなかったが事実上のハプスブルク家全世襲領の所有者であったため、ボヘミア鎮圧を決定したが、資金が不足していた。翌年3月にマティアスは死亡し、8月にフランクフルトでフェルディナントは「フェルディナント2世」として皇帝となった。 しかし、ボヘミアの等族は新皇帝を認めず、1619年8月、新教同盟のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王にした。フリードリヒ5世はイングランド王ジェームズ1世の娘エリザベス・ステュアートと結婚していたため、ボヘミア等族はイングランドからの支援を期待していたが、イングランド内戦直前によって期待は裏切られた。 一方、フェルディナント2世はスペイン・ハプスブルク家やバイエルン公マクシミリアン1世などのリーガ諸侯との同盟の結成に成功し、プロテスタントながらフリードリヒ5世と反目していたザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世さえも味方につけ、ティリー伯を司令官とする軍を派遣した。これに対するボヘミア諸侯は新教同盟ウニオンから援軍を得られなかった。 ティリー率いるカトリック連盟軍はオーストリア身分制議会軍を破り、1620年11月8日の白山の戦いで反乱軍は大敗した。 一方、スペインはオランダを再征服するためにライン川沿いの陸路を確保しようとしており、スピノラが率いるスペイン軍は1620年9月にプファルツを占領した。戦況の悪化により1621年5月にはプロテスタント同盟が解消した。カトリック連盟軍は1621年秋にオーバープファルツを占領し、1622年にスペインと合流、ティリーはマンスフェルト、クリスティアンも一蹴した。1622年10月25日にグラーツが攻略され、ボヘミア王の領域は完全に鎮圧された。 スペインと旧教連盟によって鎮圧されたボヘミアの反乱勢力は処刑され、以後ボヘミアはカトリック化政策が断行された。これ以後、ハプスブルク家のボヘミア支配は強固なものとなった。1627年の新領法条例によってボヘミアはハプスブルク家の属領となった。これにより、多くのボヘミア貴族やプロテスタントがヨーロッパ各地に亡命した。フリードリヒ5世は領土を失ったためオランダへ亡命し、バイエルン公マクシミリアン1世はプファルツ選帝侯位を獲得した。スペインは対オランダ戦争に向けての重要なルート(スペイン街道)を確保した。バイエルン公のプファルツ選帝侯位獲得は金印勅書に反するものであったため、諸侯の怒りを買った。プファルツ侵攻後もティリーはハルバーシュタット司教領に攻撃をかけ、ドイツ北部にも戦線が拡大した。 カトリック連盟とハプスブルク家によるプファルツ侵攻に脅威を感じたフランスのリシュリューは1624年、オランダ、イングランド、スウェーデン、デンマークと「ハーグ同盟(対ハプスブルク同盟)」を結成し、カトリック連合を牽制した。またフランス、サヴォイア、ヴェネツィアがスペインのハプスブルク家への支援ルートを阻んでいた。
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