デンマーク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/07 05:32 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動デンマーク戦争(デンマークせんそう)
- デンマーク・ニーダーザクセン戦争 - 17世紀の30年戦争の一部。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 - 19世紀に2回あった対プロイセン戦争。
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デンマーク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
デンマーク王クリスチャン4世は、オランダからボヘミア・プファルツ戦争への支援を要請されていたが中立を守った。しかし、デンマーク王はもともと北ドイツへの勢力拡大とバルト海、北海の覇権確立を狙っており、王国参事会の反対を無視して介入を決定した。1625年、デンマーク王がニーダーザクセン帝国管区(クライス)長官として、長らく空位になっている2つの帝国内の司教職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、ティリー伯の軍がニーダーザクセンに進駐して皇帝に露骨に拒絶された。これによりデンマーク王は介入への口実を得た。ハーグ条約によって、イギリスとオランダからの支援を受けた。 反ハプスブルク家のプロテスタント連合は、さらにトランシルヴァニア侯ガブリエル・ベトレン、オスマン・トルコ、カトリックのフランスと共鳴して、ブラウンシュヴァイクのクリスティアンがウエストファリアと下ラインラントのウィッテルスバハ家所領を制圧し、デンマーク王はニーダーザクセンを奪取し、連合軍最高司令官マンスフェルトがハンガリーからのベトレンと合流してボヘミアとシュレジエンとモラビアに侵入する計画であった。 スウェーデンは同盟による支援を受けて1625年5月に主戦場ニーダーザクセンに進軍した。 これに対して皇帝軍は、ティリー率いるカトリック連盟軍に加えて、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシュタインを皇帝軍総司令官に登用し、10万人の軍を率いた。 デンマークは当初はスウェーデンとの共同介入であったが、両者の主導権争いの結果、スウェーデンはポーランド問題に注力し、デンマーク単独での介入となった。デンマーク王の参戦に対してイングランドは資金を提供し、エルンスト・フォン・マンスフェルト(総司令官)、クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの2人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣したが、デンマーク軍と傭兵部隊の間では戦略についての主導権争いが発生し、ついに別行動を取るようになる。これは皇帝軍の各個撃破の好餌となり、マンスフェルトは1626年4月デッサウの戦い(ドイツ語版)で敗北した。マンスフェルトはベネチアに支援を求める途中で死んだ。 ブラウンシュヴァイク公クリスティアンは1626年6月16日に病死し、6月27日のルッターの戦いでティリー皇帝軍はデンマーク軍に勝利し、ホルシュタインまで追撃し、それに呼応してヴァレンシュタインもユトランド半島まで追った。デンマークが帝国内に領有していたポンメルン、デンマーク側に加担していたメクレンブルク領も皇帝軍が占領した。 1628年夏、ヴァレンシュタインが帝国海軍基地確保のためにポンメルンのシュトラールズント港を包囲するに至り、スウェーデンは介入を決定した。 しかし、ヴァレンシュタイン軍を追撃しようとクリスチャン4世が再上陸して返り討ちに遭い(ヴォルガストの戦い(英語版))、1629年5月22日に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し、領土は没収されずに維持されたものの、帝国への介入を禁じられた。これによってデンマークは北欧の覇者としての地位がゆらぐこととなった。 なお、イングランドも当初はドイツに軍を派遣したり、フランスとハーグ同盟を結んだり、マンスフェルトに資金提供したりして三十年戦争に介入していたが、フリードリヒ5世の義父だったイングランド王ジェームズ1世が1625年に亡くなりチャールズ1世が即位すると、側近のバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズはフランスとの協調外交で反ハプスブルクとプファルツ救援を掲げてスペインのカディスに艦隊を派遣した。ところが、マンスフェルトの大敗及びカディスの遠征失敗でバッキンガム公は人望を失い、1627年にフランスに宣戦布告したがフランス・スペインの同盟締結でフランスも敵に回してしまい、ラ・ロシェル包囲戦の敗北でバッキンガム公は更に権威を失墜、議会から失敗を責められ、1628年にバッキンガム公が暗殺されるとチャールズ1世は1629年にフランスと、1630年にスペインと和睦して三十年戦争から手を引いた。このとき、スペインからイングランドへ大量のメキシコ銀が流入した。以後チャールズ1世は財政再建を進めようと専制政治を行い、それが元で議会と衝突して1642年に清教徒革命(イングランド内戦)を引き起こし、三十年戦争終結後の1649年に処刑されイングランド共和国の成立に繋がった。
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