ボヘミアの封臣、衰退
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「シロンスク・ピャスト家」の記事における「ボヘミアの封臣、衰退」の解説
プシェミスウ2世がポーランドを統一すると、弱小なシロンスクの諸公達は自分達を庇護してくれる強大な同盟者と結ぶ必要に迫られた。彼らはポーランド国家から分離し、ボヘミア王冠に属する臣下となることを選んだ。 ボヘミア王兼ポーランド王ヴァーツラフ3世が暗殺されると、ボヘミア王位継承要求者達が次々に現れたのと同様に、ポーランド王位に関しても大勢のピャスト家の諸公達が後継者に名乗りを挙げた。1327年、ボヘミア王ヨハンはポーランド王位を獲得するためポーランドに侵攻した。ハンガリー王カーロイ1世の介入を受け、ヨハンはマウォポルスカから引き揚げたものの、帰途にグルヌィ・シロンスク(高地シロンスク)を領するピャスト家の公爵達に自分の宗主権を認めさせた。1327年2月、ポーランド領グルヌィ・シロンスクに属していた5つの公国がボヘミア王の封臣となった。ニェモドリン公国、チェシン公国、ラチブシュ公国、コジュレ=ビトム公国、オシフィエンチム=ザトル公国である。4月にはオポーレ公国とヴロツワフ公国もボヘミア王冠の属国となることを認めた。 1329年、ヴワディスワフ1世(短躯王)はドイツ騎士団との戦争に乗り出した。ドイツ騎士団の背後についていたのは、今やマゾフシェとドルヌィ・シロンスク(低地シロンスク)の諸公をも封臣として従えていたボヘミア王ヨハンだった。1329年の4月から5月にかけ、ドルヌィ・シロンスクの諸公国は次々にボヘミア王冠に従属することを決めた。シチナヴァ、オレシニツァ、ジャガン、レグニツァ=ブジェク及びヤヴォルである。1331年、グウォグフ公国もまたポーランドの領域から分離した。 シロンスク・ピャスト家の最後の独立諸公となったシフィドニツァ公ボルコ2世は1368年に死んだ。彼の未亡人アグネスはシフィドニツァ公国を1392年に死ぬまで統治していた。ボルコ2世とその寡婦の死後、シロンスク・ピャスト家の諸公全員が、主権を保ちつつもボヘミア王冠の封臣身分となった。 ボヘミア王ヨハンは1335年、ポーランド王カジミェシュ3世(大王)がシロンスクに対する要求権を放棄するのを条件に、自らが続けてきたポーランド王位要求を取り下げた。この取り決めはトレンチーンの和約の締結、及び1339年のヴィシェグラード会議の追認で公式のものとなった。 きわめて狭小な分領公国への分裂は、威信と権力の凋落をまねく結果となった。多くのシロンスク・ピャスト家の諸公達は、今やいささか身に余る諸特権を授けられた田舎の大地主に過ぎなくなっていた。シロンスク・ピャスト家の公爵の中には、グウォグフ=ジャガン公ヤン2世のように傭兵隊長として諸外国に仕えた者もいれば、同族のヘンリク9世のように、ゴリアールをしながらヨーロッパ中を放浪した者もいた。チェシン公プシェミスワフ1世、オポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクのようにボヘミア王家とハンガリー王家に家臣として活動する例もあった。13世紀、14世紀のシロンスク・ピャスト家の人々は、ドイツをはじめとする諸侯またはヨーロッパの王族の家系と通婚するのが普通だったが、後世になると諸侯より低い出自の貴族と結婚したり、はては富裕市民の娘と結婚する例も出た。 シロンスク・ピャスト家はプロテスタント信仰を選ぶことによって、その威信を再び手に入れることが出来た。1526年以降シロンスクを支配していたカトリックの擁護者ハプスブルク君主国に対抗するため、一門の公爵達はホーエンツォレルン家のようなプロテスタントの支配者家系と血縁関係を結ぶことで、政治的な支援を受けようとしたのである。彼ら一族による最後の独自の政策と言えるものは、1526年にレグニツァ公フリデリク2世がボヘミアの次期国王候補となったこと、1668年にレグニツァ公フリスティアンがポーランド次期国王候補になったことなどである(ポーランドの国王自由選挙には、1668年以前にも何度か候補者を出した)。 15世紀から17世紀の間に、シロンスク・ピャスト家から出た数多くの公爵家は次々に絶えていった。1532年にオポーレのヤン2世(善良公)が死ぬと、グルヌィ・シロンスクの大部分がボヘミア王国の直接統治におかれた。1675年、嫡出としては最後のシロンスク・ピャスト家の男子となるレグニツァ公イェジ・ヴィルヘルム(ゲオルク・ヴィルヘルム)が亡くなった。1706年にはシロンスク・ピャスト家最後の男子であるフェルディナント2世・ホヘンステイン男爵が没し、翌1707年のイェジ・ヴィルヘルムの姉カロリーナ(シャルロッテ)の死によって、ピャスト家に属する者は1人もいなくなった。
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