新絶対主義
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「新絶対主義」の解説
母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィー大公妃の意見にほとんど逆らえなかった。そのため治世当初は、保守的なゾフィー大公妃がしばしば政治に介入した。首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵は、貴族でありながら伝統的貴族をハプスブルク家にとっての脅威とみなし、むしろ農民層の大衆を信頼できる同盟者と考えた。彼の補佐を受けながらフランツ・ヨーゼフ1世が行った統治は「新絶対主義(ドイツ語版)」(ネオアプゾルティスムス)と称される。それは古い絶対主義を復活させようとするものではなく、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとしたからである。また王権神授説を信じるフランツ・ヨーゼフ1世自身も、即位後ただちに内閣と議会の関係を変えようとはしなかった。「新絶対主義」の理論的拠り所は、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというものである。 1851年12月31日、「大晦日勅書」を発する。これは皇帝の絶対的権威をうたったものであり、政治や立法への国民の関与を認めず、出版の自由や検閲の廃止などを暫定的に認めた1849年3月の欽定憲法を完全に廃止するものであった。これに先立つ8月にフランツ・ヨーゼフ1世は「イギリス的・フランス的憲法をオーストリア帝国に適用することの不可能なることは、見識あるすべての人々によって認められている」と断言しており、明らかに皇帝の意志が反映された結果である。9月には亡命していたメッテルニヒがウィーンに帰還する。かくしてオーストリアはふたたび絶対主義国家に戻った。 1852年にシュヴァルツェンベルク侯爵が世を去ると、フランツ・ヨーゼフ1世は首相を空席とし、真の絶対君主として君臨することになる。シュヴァルツェンベルク侯爵の後継者たりうる人物は、誰も見当たらなかったのである。アレクサンダー・フォン・バッハ内相が政府内で枢要な地位にあったが、それはほとんど内政問題のみに関してであった。この時代は内相の名から「バッハ時代」と呼ばれる。
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新絶対主義
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「新絶対主義」の解説
母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィー大公妃の意見にほとんど逆らえなかった。そのため治世当初は、保守的なゾフィー大公妃がしばしば政治に介入した。首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵は、貴族でありながら伝統的貴族をハプスブルク家にとっての脅威とみなし、むしろ農民層の大衆を信頼できる同盟者と考えた。彼の補佐を受けながらフランツ・ヨーゼフ1世が行った統治は「新絶対主義(ドイツ語版)」(ネオアプゾルティスムス)と称される。それは古い絶対主義を復活させようとするものではなく、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとしたからである。また王権神授説を信じるフランツ・ヨーゼフ1世自身も、即位後ただちに内閣と議会の関係を変えようとはしなかった。「新絶対主義」の理論的拠り所は、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというものである。 1851年12月31日、「大晦日勅書」を発する。これは皇帝の絶対的権威をうたったものであり、政治や立法への国民の関与を認めず、出版の自由や検閲の廃止などを暫定的に認めた1849年3月の欽定憲法を完全に廃止するものであった。これに先立つ8月にフランツ・ヨーゼフ1世は「イギリス的・フランス的憲法をオーストリア帝国に適用することの不可能なることは、見識あるすべての人々によって認められている」と断言しており、明らかに皇帝の意志が反映された結果である。9月には亡命していたメッテルニヒがウィーンに帰還する。かくしてオーストリアはふたたび絶対主義国家に戻った。 1852年にシュヴァルツェンベルク侯爵が世を去ると、フランツ・ヨーゼフ1世は首相を空席とし、真の絶対君主として君臨することになる。シュヴァルツェンベルク侯爵の後継者たりうる人物は、誰も見当たらなかったのである。アレクサンダー・フォン・バッハ内相が政府内で枢要な地位にあったが、それはほとんど内政問題のみに関してであった。この時代は内相の名から「バッハ時代」と呼ばれる。
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