新総督の就任
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ブライの失脚の後、ジョンストンは上官で、タスマニアのポート・ダルリンプル(現在のローンセストン)で植民地を建設しているパターソン大佐にこのことを知らせた。パターソンは、本国からはっきりした命令が来るまで、この件に関与するのを渋った。3月になって、ジョセフ・フォヴォー(英語版)中佐が、総督代理就任の命令を携えてシドニーに戻ってくることを知ったパターソンは、シドニーで優勢を誇っている軍政への対処をフォヴォーにまかせた。 7月にフォヴォーが到着し、植民地業務を引き継いだ、これはマッカーサーをいらだたせた。裁判の結果は本国からもたらされることになっており、ブライの振舞は横柄であったため、フォヴォーはブライを軟禁状態にとどめ置いて、植民地の道路や橋や、公共の建物の改善に注意を向けた、フォヴォーは、こういったものの整備がかなり見過ごされていると感じた。本国からの通知は何ら来ず、フォヴォーはパターソンを1809年1月にシドニーに呼んで、事態を改善するように伝えた。 パターソンはジョンストンとマッカーサーを、裁判のため本国に送り、ブライを、イギリスに戻るという契約書の署名に同意するまで兵舎に監禁した。パターソンは健康が衰えており、パラマタの政庁に引っ込んで、フォヴォーに植民地を切り回しさせた。1809年1月、ブライは10門の物資輸送艦ポーポイズの指揮権を与えられ、その指揮を執りつつイギリスへ戻った。しかしブライはタスマニアのホバートに針路を変え、植民地の支配権を取り戻すため、タスマニアの総督代理であるデヴィッド・コリンズ(英語版)の援助を求めた。コリンズは援助をしなかった。その後ブライは、パターソンの命令によりポーポイズの指揮から外され、1810年の1月までホバート南部のデルウェント川(英語版)の河口に停泊させられた。 植民地政府はついに、海軍出身の総督を植民地の統治に送り込むことへの不支持を決定した。現在は第102歩兵連隊として知られるニューサウスウェールズ軍団の代わりに、イギリスから第73歩兵連隊(英語版)を呼び寄せ、その指揮官を総督が務めることにした。ブライは1日だけ総督に復職した後にイギリスへ召喚された。ジョンストンはイギリスで軍法会議に出廷したが、マッカーサーはシドニーで裁判を受けた。第73歩兵連隊の輸送の任務についたのはマイルズ・ナイチンゲール少将だったが、直前になって健康を害したため、ラックラン・マッコーリー少将が代わりに任務についた。1810年1月1日、マッコーリーは仰々しい儀式を経て総督に就任した。
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