大王のひつぎ実験航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 07:52 UTC 版)
「阿蘇ピンク石」の記事における「大王のひつぎ実験航海」の解説
石棺文化研究会が中心となって阿蘇ピンク石製の復元製作と運搬実験が行われた。設立準備会を経て2004年4月に考古学、海事史、古代史の研究者で組織する「大王のひつぎ実験航海実行委員会」が発足する。復元したのは石棺、修羅、石棺を載せる台船、台船を曳く古代船である。 石棺は今城塚古墳の石棺をモデルとしたが、石片であるために円山古墳と甲山古墳の石棺も参考に復元製作された。2004年3月から石材の選定が行われたが、必要とされる大きさから阿蘇ピンク石の選定に困難があり、約3か月を要して石材を切り出した。切り出された原石は身が20t、蓋が15tであったが、約2か月をかけて荒仕上まで行い、2004年7月24日に修羅による曳き出し実験が行われた。 陸上運搬で石棺を載せる修羅は大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳で出土したものをモデルに復元された。材料となった木は熊本県宇城市で発見された樹齢250年アラカシを伐採して使用し、最終的な大きさは全長6.24m、最大幅1.51mであった。 石棺の積載船について、当初は双胴船としてその間に石棺を水中に吊り下げるという方法が計画されたが、安定性に問題があるとされ不採用となった。次にイカダ案が検討され、石棺を積載しての浮上実験も行われたがイカダが石棺の重量によりかなり沈み、それにともなう抵抗により曳航することが困難と結論づけられた。最終的に身と蓋のそれぞれの台船(丸木船)を作成し、輸送する方法が取られた。 曳航する古代船は宮崎県西都原古墳群170号墳出土の船形埴輪をモデルとし、松木哲の監修により復元が行われた。アメリカ松の原木2本を使用する準構造船で全長11.9m、幅2.1m、推定重量6tとなった。名称は「海王」とされ、定員は30名、漕ぎ手は両舷で18名である。 2005年7月24日に宇土市から搬送航海を開始。航路は有明海から玄界灘、関門海峡を経由して瀬戸内を進み、8月26日に大阪南港に到着。総航行距離は1006㎞であった。航海実験により石棺の輸送は沿岸のサポートが不可欠であったことが実証され、航路はヤマト王権の支配領域を示し、石棺輸送が王権を誇示するパフォーマンスであった可能性が示された。 実験航海が終わった後の8月28日には、高槻市で修羅曳きイベント「1000人で運ぶ大王の石棺」が行われた。 一連の輸送実験が終わったのち石棺の仕上げが行われ、最終的に復元された棺は、蓋は全長240㎝、幅124㎝、高65㎝、重量2.9t。身は全長240㎝、幅125㎝、高さ89㎝、重量3.8tとなった。使用された修羅は近つ飛鳥博物館で保存展示されている。
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