アレクサンドロス大王との遭遇とは? わかりやすく解説

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アレクサンドロス大王との遭遇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 09:08 UTC 版)

ポロス (古代インドの王)」の記事における「アレクサンドロス大王との遭遇」の解説

詳細は「ヒュダスペス河畔の戦い」を参照 ギリシア史料によれば紀元前327年アレクサンドロス大王インド西北部侵入した当時、この地域には3人の有力者がいた。ひとりはインダス川上流タキシラ王国を父から受け継いで間もない首長・タクシレス(英語版)(古代ギリシア語: Taxiles、ヒンディー語: Ambhi アーンビ)であり、もう一人カシミール地方支配するアビサレス(英語版)王、そして最後東部パンジャブポロスであった当時ポロス領土インダス川支流のひとつヒュダスペス川現在のジェルム川)からアケシネス川(現在のシェナブ川)にいたる肥沃な地域にあり、ギリシア記録によれば騎兵4千、歩兵5万戦車300戦象200動員できたという。ポロス自身身長2mを越す巨漢で、勇猛並びない戦士であったとされるポロス長年タキシラの王と争っていた。そのためタキシラの新首長・タクシレスがいちはやくアレクサンドロス降ったことを知ると、カシミールのアビサレスと結んでマケドニア軍への抗戦決定し領国西境のヒュダスペス川アレクサンドロス侵攻軍を阻止することにした。 紀元前326年の夏のはじめ頃、アレクサンドロスはタクシレスらインド同盟諸侯とともにヒュダスペス河畔到達したアレクサンドロス対岸ポロス率い大軍マケドニア軍待ち受けているのを知ったため、軍を河畔とどめて戦機探った正面から渡河強行するのは危険であるため、アレクサンドロス騎兵使って毎夜のように陽動作戦展開しポロスの軍がそれに応じるのに疲れるのを待って、嵐の夜に少数精鋭騎兵率いて上流迂回しひそかに川を渡ったポロス間もなくこれに気付いて息子一人迎撃に送るが、この小部隊はアレクサンドロス粉砕された。ポロス全部隊に迎撃構え取らせるが、アレクサンドロス対岸残していた部隊背後を衝かれたこともあって敗北する。このときポロス同盟者アビサレスの援軍期待していたという説もあるが、アビサレスはマケドニア軍侵入のほぼ全期間通じて形勢眺め終始したポロスは兵が次々倒れて最後まで戦象の上奮戦し続けたので、その勇気感嘆したアレクサンドロス降伏勧めるアッリアノスによればアレクサンドロスははじめタクシレスを使者立てたポロス相手にしなかったため、何度も勧告使を送り最後にポロス旧友メロエスという人物によって説得成功したという。なお、現代インド研究者中にはこのメロエスをのちのチャンドラグプタ・マウリヤに比定する者もいるが、根拠きわめて薄弱である。 アレクサンドロス処遇希望を訊かれたポロスは「王として待遇せよ」とだけ答えたアレクサンドロスがさらに問い重ねると、「すべてはこの答え中に含まれている」と言ったアレクサンドロス彼の勇気誇り高さに敬意払い彼に領国すべてを安堵したうえ友人として遇したという。

※この「アレクサンドロス大王との遭遇」の解説は、「ポロス (古代インドの王)」の解説の一部です。
「アレクサンドロス大王との遭遇」を含む「ポロス (古代インドの王)」の記事については、「ポロス (古代インドの王)」の概要を参照ください。

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