アレクサンドロス・セウェルスとマクシミヌスの時代
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「第2軍団パルティカ」の記事における「アレクサンドロス・セウェルスとマクシミヌスの時代」の解説
213年にはアレクサンドロス・セウェルスの麾下でササン朝ペルシアと交戦、のちに皇帝とゲルマニア属州に帰還。235年にアレクサンドロスが暗殺された頃にはモグンティアクムに赴任していた。その後の権力闘争では軍団はマクシミヌス・トラクスの側につくが、元老院は238年にマクシミヌスを国家の敵として断罪、ゴルティアヌス3世を皇帝として認めた。これに対してマクシミヌスは軍団を率いてローマへ進軍、その中に第2軍団パルティカもいた。この間第2軍団は司令官の価値を値踏みした結果、マクシミヌスを支持し続けるのは良くないと判断。そしてローマの元老院にたどり着く前にマクシミヌスを殺してしまう。このような一連の第2軍団の動きは3世紀のローマ軍団が行った政治的な動きの典型的な例として記憶されている。この功績に対して第2軍団は国家の敵を支持した事への恩赦が与えられ、アルバン山脈の駐屯地へ戻る事を許された。 それから数十年間軍団は一部の属州で援軍のような働きをしており、3世紀の絶え間ない玉座をかけた戦いでは先兵としてあり続けた。ガッリエヌスは軍団に対して「クィンキエス・フィレリス・クィンキエス・ピア(V Fidelis V Pia-『五たび忠実で五たび誠実な軍団』の意)」と「セクシエス・フィデリス・セクシエス・ピア(VI Fidelis VI Pia - 『六たび忠実で六たび誠実な軍団』の意)の称号を授けられている。 この称号が授けられた時、軍団はどこに駐在していたのかはわかってはいない。考えうる他の条件が同じだとすると、ウァレリアヌスと息子であり共同統治者のガッリエヌスは250年代末にはこの軍団を東に連れて行く可能性はあった。もしなっていたら軍団はシャープール1世によって敗北、ウァレリヌスとともに捕囚の憂き目に巻き込まれていたであろう事は推測できる。しかしマクリアヌスの反乱やゼノビアのパルミラの半独立勢力など、次々と巻き込まれかねないリスクを第2軍団が回避でき得たという事、またはガッリエヌスから敬意ある継承を贈られたという事から察すると、軍団は父親のウァレリアヌスではなく、ガッリエヌスの指揮下にあったものと考えられる。しかしながら、可能性は低いものの、叛乱者マクリアヌスの指揮下にあって敗北、ガッリエヌスによって赦され帝国内に戻っていた可能性も否定できない。マケドニアにはユピテル神の感謝を捧げ、そしてガッリエヌスの「安全と健康(pro salute et incolumitate)」を祈る碑文が残されており、またローマには242年の記録で軍団の「才あるゴルディアナとフォルトゥーナ」に感謝を捧げ、ゴルディアヌスとその妻の安全を祈る碑文が残されているが、軍団の動向についてはほとんど何もわかってはいない。
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