アレクサンドロスの征服以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:42 UTC 版)
「メソポタミア」の記事における「アレクサンドロスの征服以降」の解説
紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると彼の帝国はほどなくして瓦解し、メソポタミアはディアドコイ国家のひとつであるセレウコス朝によって支配されることとなった。紀元前141年にはペルシア高原から侵攻してきたパルティアがこの地を占領した。116年、トラヤヌスが率いるローマ帝国軍は、パルティアを破ってメソポタミアを占領するが、翌年トラヤヌスが死去(117年)すると、後継皇帝ハドリアヌスは翌118年にメソポタミアから撤退し、再びパルティア領となった。しかしその後もローマはしばしばパルティアへと侵攻を続け、メソポタミアは基本的にはパルティアに属しながらもたびたび支配勢力が変化した。パルティアが滅亡し、230年にメソポタミアがサーサーン朝の領土となると、メソポタミア中部に首都クテシフォンを置いて繁栄した。 636年、イスラム帝国がクテシフォンに入城し、以後ウマイヤ朝、アッバース朝、モンゴル帝国、イルハン朝、オスマン帝国などの諸帝国の支配を受け、1920年にはイギリス委任統治領メソポタミアが成立し、1932年にイラクが独立するとその領土となった。
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