アレクサンドロス死後、ディアドコイ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/06 15:30 UTC 版)
「ペウケスタス」の記事における「アレクサンドロス死後、ディアドコイ戦争」の解説
ペウケスタスはアレクサンドロスの死に続いて起こった諸事件においては主導的な役割を果たしはしなかったが、紀元前323年に開催されたバビロン会議ではペルシス太守に留任し(一方でユスティヌスはバビロニア太守だとしている)、それを修正した紀元前321年のトリパラディソスの軍会でもペルシス太守に留任した。 紀元前317年にメディア太守ペイトンが勢力拡大を目論んでパルティアを同地の太守を殺して奪った。この時ペウケスタスは自らの10000のペルシア兵と他の東方の太守たちを率いて戦い、ペイトンを破った。ペウケスタスは引き続いて起こったアンティゴノスとエウメネスの戦いでは親しかったエウメネスの側についた。ペウケスタスは対ペイトン戦で共に戦ったティグリス川以西の諸太守の支持を得、ペウケスタス自身もペルセポリスでは豪華な饗宴を開くなどして将兵の支持を得ようとしたが、エウメネスは特定の総司令官をたてる代わりにアレクサンドロスの遺品を飾ったテントを再現していわば御前会議の形で会議を行ったり、手紙を偽造したり、ペウケスタスの支持者のシビュルティオスを告訴するなどして巧妙にペウケスタスの影響力を排除して事実上の総司令官となった。 この一連の戦いでペウケスタスはエウメネスと総指揮権を争ったように権力欲は強いが臆病で無能な将軍として描かれている。引き分けに終わった紀元前317年のパラエタケネの戦いではペウケスタスは騎兵部隊を率い、この時は大過なく任を果たしたが、紀元前316年のガビエネの戦いの直前にアンティゴノスが越冬のために散らばっていたエウメネスらの軍を奇襲しようとした時にはアンティゴノスの接近に狼狽し、後方への後退を提案した。ガビエネの戦いではペウケスタスは散々エウメネスの足を引っ張った。アンティゴノスの騎兵部隊の攻撃で恐慌状態に陥って勝手に後退し、エウメネスが反撃を試みた時にはそれを拒否してさらに後退した。結果としてこの会戦での敗北(戦術的には引き分けだったが)はエウメネスの破滅に繋がり、彼は味方に裏切られてアンティゴノスに引き渡され、軍は敵に降伏した。しかし、その裏切りを快く思わなかったアンティゴノスはペウケスタスから所領を取り上げ、空約束でペウケスタスを元気付けながらも、彼を遠ざけた。
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