アメンヘルケペシュエフ
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アメンヘルケペシュエフ Amenherkhepeshef |
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王太子 | |
続柄 | ラムセス2世第1王子 |
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全名 | Amenherkhepeshef 翻字:imn-hr-xpS.f 翻訳:Amen is with his strong arm |
称号 | 王太子, 軍の指揮官, 王の腹心, 王の書記, Fan-bearer on the Right Side of the King[訳語疑問点] |
出生 | 紀元前1279年以前 |
死去 | 紀元前1254年頃(28歳頃没) |
配偶者 | ネフェルタリ(ラムセス2世の三女、母親とは別人) |
子女 | セティー |
父親 | ラムセス2世 |
母親 | ネフェルタリ |
アメンヘルケペシュエフまたはアメンヘルケプシェフ[1](imn-hr-xpS=f,Amenherkhepeshef,Amenhirkhopshef[2]、? - 紀元前1254年頃)とは、古代エジプトのファラオ、ラムセス2世の第一王子。彼の姿を描いた壁画が残っている。
概要
アメンヘルケペシュエフは祖父のセティ1世の治世中に、後のラムセス2世とネフェルタリとの間に長男として誕生した。誕生して間もなくネフェルタリは王妃とされている。後に生まれた同母兄弟にはプレヒルウォンメフ、へヌタウェイ、メルトアトゥム、メリトアメン、メリラーらがいる。
ファラオの次に栄誉的な称号であった「王太子(Pharaoh's Prince)」の称号の他、 「軍司令官」「有能なる副官」「王の右方の扇持ち」 「王室の書記官」といった称号を保有していた。
父の在位25年目頃に没し、太子の地位は次男のラムセス王子が継いだ。栄誉ある壮観な墓室に葬られたという。墓で見つかった遺物の中には、アメンヘルケペシュエフの名前が付けられた臓器が入っているカノプス壺があり、またメイスによる打撲痕であると考えられている、深い骨折のある頭蓋骨を含む4人の男性の骨もあった。
脚注
- ^ 松本 1998, p. 248.
- ^ Clayton 1994, p. 146.
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