ヒッタイト新王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 01:53 UTC 版)
紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国が成立した。 紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突(カデシュの戦い)。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。 紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。
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