ヒッタイト王国の起源
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ボアズキョイで発見されたヒッタイト語文書によれば、ザルプワ(英語版)王ウフナがネサ(カネシュ)を攻撃した後、ザルプワの人々は町のシウシュ神の像を奪った。クッシャラ(英語版)王ピトハナはネサを「夜に、力で」征服したが、「町の人に対して悪事を働くことはなかった」。ネサはピトハナの息子のアニッタに対して反乱を起こしたが、アニッタは反乱を制圧し、ネサに都を置いた。アニッタはさらにザルプワを侵略し、その王フッジヤをとらえ、ネサのシウシュ神像を元に戻した。このようにしてクッシャラの王朝がネサの支配権を得たとする。この物語がそのまま史実とできるかどうかは不明であるが、ネサにおけるアニッタの支配は考古学的に証明されている。 紀元前17世紀にヒッタイト人は、かつてアニッタが呪ったハットゥシャに首都を移し、ヒッタイト王国を築いた。ヒッタイト語のことをネシリ(Nešili、ネサの言語を意味する)と呼ぶのはこの歴史的経緯に由来する。
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ヒッタイト王国の起源
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「ヒッタイトの歴史」の記事における「ヒッタイト王国の起源」の解説
ヒッタイト王国の初期の歴史は、紀元前17世紀ごろに初めて書かれたとみられるが、紀元前14世紀および紀元前13世紀に作られた複製としてしか残っていない粘土板を通じて知る事が出来る。これらの粘土板はアニッタ文書という総称で知られるもので、クッシャラ(英語版)(KussaraあるいはKusssar。考古学的に未だ発見されていない小さな都市国家)の王ピトハナがいかにして隣の都市カニシュ(ネサ)を征服したかを説くところから始まる。しかしながら、これらの粘土板の本当の主題はピトハナの息子アニッタについてである。アニッタは父の遺業を継いで、隣接するハットゥシャ、ザルプワ(英語版)(ザルパ)などいくつかの都市を征服した。 しかしながら、アニッタの帝国は建国してほとんど間もなく崩壊し、その地域ではその後数十年にわたって歴史の記録も行われなくなったが、いくつかの主要な遺跡は明らかに破壊されており、長きにわたって続いてきたアッシリア商人の交易システムも機能しなくなっていた。再び文献記録が現れた頃には、クッシャラを根拠地とする小さな王国が再び中心的地位を占めていたが、その支配者がアニッタに連なる者であるかどうかは不確かである(Bryce, 2005, 第2章、第4章)。
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