ヒッタイトによる陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 10:16 UTC 版)
北にあったヒッタイト王国では、ハットゥシリ1世が紀元前17世紀後半に即位し、南へ遠征を開始した。彼はヤムハドの影響下にあった都市多数を陥落させ、ヤムハドの属国アララハを破壊した。数年後、再びハットゥシリ1世は再度北シリアへ軍を向けヤムハドを攻撃し、ハッシュワ(Hašuwa / Hašum)の街でヤムハドの援軍と戦いこれを陥落させた。こうした戦いの過程でアムル人やフルリ人の神だったハダドなどの神像が戦利品としてヒッタイトに持ち去られたが、ヒッタイトではこれらの神像とその信仰が広がり、ヒッタイトの土着宗教と融合することになる。 ハットゥシリ1世の跡を継いだムルシリ1世は、ハットゥシリが完遂できなかったヤムハド征服への努力を続けた。ヤムハドの名はこの時代までは文献などに登場するが、ヤムハドの終焉がいつ訪れたかについては明らかでない。この200年後にヒッタイトの王となったムルシリ2世(在位:紀元前1322年頃 - 紀元前1295年頃)の時代にムルシリ1世によるハルペ破壊が記されているがその正確性には疑問もある。 この後のヤムハドについては、ヒッタイトによる破壊の1世紀後に再建されたアララハの王イドリミの石碑(現在は大英博物館に所蔵されている)に言及されている。これによれば、紀元前16世紀末から紀元前15世紀初頭の時期、ハルペの王子だったイドリミはエマルへ逃れ、カナンなどを放浪した後、ミタンニの王バラタルナ(紀元前1470年頃 - 紀元前1450年頃)の臣下となり、支援されてアララハに自らの王朝を築いたとされる。 ヤムハド自身による記録は少なくヤムハド王国の首都の遺跡も見つかっていない。ヤムハド王国の文書庫や王宮は、あるとすればおそらく今もアレッポ市街の地下のどこかに埋もれていると考えられる。
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