古代における使用
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現存する最古の蝋板として挙げられるのが、紀元前14世紀にトルコのカシュに沈んだウルブルン難破船から1986年に引き上げられたもので、これは象牙の蝶番を使ったツゲ製の蝋板である。この発見により、ホメロスが蝋板に言及していたのが「時代錯誤」ではなかったことが実証された(ホメロスは歴史家ではなく創作者だとする立場からの批判として、ホメロスは時代考証がおかしく、その当時に存在しなかった物を自分の著作に出している例として「蝋板」が挙げられていた)。1979年にはアルバニアのデュロスでも考古学的発見があり、西暦2世紀の金貸しのものと考えられている墓から、象牙で作られた2つの蝋板が見つかった。 ギリシャ人が革製の巻物とともに折りたたみ式の蝋板を使用し始めたのは、おそらく紀元前8世紀半ばだと考えられている。『Liddell&Scott ギリシア語英語辞典』の1925年版では、ギリシャ語で書字板を意味する「デルトス(deltos、希:δέλτος)」の語源として、 古代ギリシャやローマの著作物および演劇台本に登場する文字「デルタ(Δ)」に基づくものとしており、書字板の形からデルタの文字を連想したと説明している。また、セム語における書字板の名称「daltu」に由来するものと言う説もあり、この語は元々「扉」を意味したが、紀元前13世紀のウガリットで書字板を意味する語として使われるようになった、そしてヘブライ語において「daleth」に転訛した、としている。 キリスト紀元に先立つ1000年間の時代には、書字板はすでにメソポタミアで使用されており、またシリアやパレスチナでも使用されていた。アッシリアの支配者センナケリブが首都ニネヴェ(現イラク)に建造した南西宮殿から出土した、紀元前640-615年頃の石板の彫刻(大英博物館所蔵、整理番号124955)に描かれた2人の人物のうち、1人は明らかに巻物を握りしめているが、もう一人はディプティクを開いて持っているのではないかと推測されている。また、Berthe van Regemorterはヒッタイト新王国時代の「Stela of Tarhunpiyas」(ルーブル美術館所蔵、AO 1922.)に同様の人物がいるのを発見し、その紀元前8世紀後半の人物は独特なボタン留め方式の2つ折りタブレットを持っていた。アッシリアのサルゴン2世が建造した、ニムルドにあるサルゴン宮殿の遺跡でも象牙の書字板が見つかっている。マーガレット・ハワードは、「H」の字の形に似た革製のヒンジを書字板の縁の溝に挿入して蛇腹式の構造を取るという独特なヒンジシステムによって、複数の書字板を一繋ぎに連結していたのではないかと推測した。
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古代における使用
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知られている中で最古の攻城塔の投入は、アッシュールナツィルパル2世(在位:紀元前883年 - 859年)率いる新アッシリア帝国の陸軍が、紀元前9世紀に用いた例である。彼の治世、またその後の治世のレリーフでは、傾斜道や衝角のようないくつかの包囲戦術の使用とともに攻城塔が描かれている。 幾世紀か後、アッシリアで運用されたこれらの戦術や攻城塔は、地中海を伝わって広まっていった。紀元前305年のロドス包囲戦におけるヘレポリス(英語版)(「街々の陥落者」の意)のような、古代で最大の攻城塔は、全高が135フィート、全幅は67.5フィートに達した。このように巨大な兵器を効果的に動かすにはラック・アンド・ピニオンが必要だった。この塔は200名の歩兵が人力で動かし、内部が9層に分割されていた。異なった階層には様々な型のカタパルトやバリスタが収容された。数世紀にわたり、後の攻城塔もしばしば同様の兵器を搭載した。 しかしこの大きな塔は、防衛軍が防壁前面の土地を氾濫させ、壕を掘ることで泥に埋まり込み、使い物にならなくなる事態が起きた。ロドス包囲戦では重要な点、つまり大型の攻城塔は平坦な土地を要することが明らかになった。多くの城、丘の上の市街、砦は、単に地形上の理由から、攻城塔の攻撃を実質的に無効化した。もっと小型の攻城塔が、包囲戦用のマウンド、つまり防壁を越えるために土や粗石、材木で築かれたマウンドの上で用いられた可能性がある。残存物にはマサダにおける包囲戦用の傾斜道のような例があり、ほぼ2000年間を生き残ってまだ今日にも見ることができる。 その一方で、ほぼ全ての最大級の都市は大きな河川や海岸に面し、こうした都市は外周の防壁の一部が攻城塔に弱くなった。さらにまた、こうした目標に用いられる塔は別の場所でプレハブ方式を用いて作られ、分解された上で目標の都市まで水路により運ばれる可能性があった。いくつかの希な場合では、市街の海岸の防壁を襲うため、こうした塔が船上に築かれた。第三次ミトリダテス戦争中に起きたキュジコス包囲戦では、攻城塔が普通の攻城兵器よりも多く用いられた。 古代中国の、運搬可能な攻城塔に関する最古の引用の一つは、皮肉ながら主として海戦を論じた対話集からである。中国の『越絶書』は後漢朝の袁康により西暦52年に書かれ、伍子胥(紀元前526年から紀元前484年)が、呉王闔閭(在位、紀元前514年から紀元前496年)に軍備を説明する際、船の型式の違いについて協議したとされる。使用される軍船を分類する前に子胥は語った。 "Nowadays in training naval forces we use the tactics of land forces for the best effect. Thus great wing ships correspond to the army's heavy chariots, little wing ships to light chariots, stomach strikers to battering rams, castle ships to mobile assault towers, and bridge ships to light cavalry."(最近の水軍の訓練では、我々は最良の効果のために陸上の戦術を用いる。このような大翼船は陸軍の大型の戦車と一致し、小翼船は軽量の戦車で、突冒は衝角、楼船は移動式の攻城塔、また橋船は軽騎兵にあたる。)
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