古代における使用とは? わかりやすく解説

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古代における使用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 08:34 UTC 版)

蝋板」の記事における「古代における使用」の解説

現存する最古蝋板として挙げられるのが、紀元前14世紀トルコカシュ沈んだウルブルン難破船から1986年引き上げられたもので、これは象牙蝶番使ったツゲ製の蝋板である。この発見により、ホメロス蝋板言及していたのが「時代錯誤」ではなかったことが実証された(ホメロス歴史家ではなく創作者だとする立場からの批判として、ホメロス時代考証おかしく、その当時存在しなかった物を自分著作出している例として「蝋板」が挙げられていた)。1979年にはアルバニアデュロスでも考古学的発見があり、西暦2世紀金貸しのものと考えられている墓から、象牙作られ2つ蝋板見つかったギリシャ人が革製の巻物とともに折りたたみ式蝋板使用し始めたのは、おそらく紀元前8世紀半ばだと考えられている。『Liddell&Scott ギリシア語英語辞典』の1925年版では、ギリシャ語書字板意味する「デルトス(deltos、希:δέλτος)」の語源として、 古代ギリシャローマ著作物および演劇台本登場する文字デルタ(Δ)」に基づくものとしており、書字板の形からデルタ文字連想した説明している。また、セム語における書字板の名称「daltu」に由来するものと言う説もあり、この語は元々「扉」を意味したが、紀元前13世紀ウガリット書字板意味する語として使われるようになった、そしてヘブライ語において「daleth」に転訛した、としている。 キリスト紀元先立つ1000年間の時代には、書字板はすでにメソポタミア使用されており、またシリアパレスチナでも使用されていた。アッシリア支配者センナケリブ首都ニネヴェ(現イラク)に建造した南西宮殿から出土した紀元前640-615年頃石板彫刻(大英博物館所蔵整理番号124955)に描かれ2人人物のうち、1人明らかに巻物握りしめているが、もう一人ディプティク開いて持っているではないか推測されている。また、Berthe van Regemorterはヒッタイト新王国時代の「Stela of Tarhunpiyas」(ルーブル美術館所蔵AO 1922.)に同様の人物がいるのを発見し、その紀元前8世紀後半人物独特なボタン留め方式2つ折りタブレット持っていた。アッシリアサルゴン2世建造したニムルドにあるサルゴン宮殿遺跡でも象牙書字板が見つかっている。マーガレット・ハワードは、「H」の字の形に似た革製のヒンジ書字板の縁の溝に挿入して蛇腹式の構造を取るという独特なヒンジシステムによって、複数書字板を一繋ぎ連結していたのではないか推測した

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古代における使用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 06:50 UTC 版)

攻城塔」の記事における「古代における使用」の解説

知られている中で最古攻城塔投入は、アッシュールナツィルパル2世在位紀元前883年 - 859年率い新アッシリア帝国陸軍が、紀元前9世紀用いた例である。彼の治世、またその後治世レリーフでは、傾斜道や衝角のようないくつかの包囲戦術使用とともに攻城塔描かれている。 幾世紀か後、アッシリア運用されたこれらの戦術攻城塔は、地中海伝わって広まっていった。紀元前305年ロドス包囲戦におけるヘレポリス(英語版)(「街々の陥落者」の意)のような古代最大攻城塔は、全高135フィート全幅は67.5フィート達したこのように巨大な兵器効果的に動かすにはラック・アンド・ピニオン必要だった。この塔は200名の歩兵人力動かし内部9層分割されていた。異なった階層には様々な型のカタパルトバリスタ収容された。数世紀にわたり、後の攻城塔もしばしば同様の兵器搭載した。 しかしこの大きな塔は、防衛軍防壁前面土地氾濫させ、壕を掘ることで泥に埋まり込み使い物にならなくなる事態起きたロドス包囲戦では重要な点、つまり大型攻城塔平坦な土地要することが明らかになった。多くの城、丘の上市街、砦は、単に地形上の理由から、攻城塔攻撃実質的に無効化した。もっと小型攻城塔が、包囲戦用のマウンド、つまり防壁越えるために土や粗石、材木築かれマウンドの上用いられ可能性がある。残存物にはマサダにおける包囲戦用の傾斜のような例があり、ほぼ2000年間を生き残ってまだ今日にも見ることができる。 その一方で、ほぼ全ての最大級都市大きな河川海岸面しこうした都市外周防壁一部攻城塔弱くなった。さらにまた、こうした目標用いられる塔は別の場所でプレハブ方式用いて作られ分解され上で目標都市まで水路により運ばれる可能性があった。いくつかの希な場合では、市街海岸防壁を襲うため、こうした塔が船上築かれた。第三次ミトリダテス戦争中に起きたキュジコス包囲戦では、攻城塔が普通の攻城兵器よりも多く用いられた。 古代中国の、運搬可能な攻城塔に関する最古引用一つは、皮肉ながら主として海戦論じた対話集からである。中国の『越絶書』は後漢朝の袁康により西暦52年書かれ伍子胥紀元前526年から紀元前484年)が、呉王闔閭在位紀元前514年から紀元前496年)に軍備説明する際、船の型式違いについて協議したとされる使用される軍船分類する前に子胥は語った。 "Nowadays in training naval forces we use the tactics of land forces for the best effect. Thus great wing ships correspond to the army's heavy chariots, little wing ships to light chariots, stomach strikers to battering rams, castle ships to mobile assault towers, and bridge ships to light cavalry."(最近水軍訓練では、我々は最良効果のために陸上戦術用いる。このような大翼船は陸軍大型戦車一致し小翼船は軽量戦車で、突冒は衝角楼船移動式攻城塔、また橋船軽騎兵にあたる。)

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