古代における暦の運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 08:45 UTC 版)
人が最初に季節を知るための手がかりとしたのは、空の星であったといわれているが、さらに月の満ち欠けも日にちを数える手がかりとして使われ、この月の満ち欠けをもとに世界各地で「太陰暦」という暦が作られるようになった。 天体の月が最も欠けた状態を「朔」(さく)と言い、この「朔」から約15日たつと満月になる。これを「望」(ぼう)という。「望」からまた約15日たつと「朔」となる。この「朔」→「望」→「朔」の約30日間を「一か月」とし、これを12回繰り返すことで「一年」とする。「太陰暦」とは本来このようなものである。「朔」から「朔」へ戻る周期、すなわち「太陰暦」の一か月を「朔望月」という。この朔望月は暦の上では「30日」か「29日」のどちらかになる。そして後世「30日」は「大の月」、「29日」は「小の月」と呼ばれている。一年のうちで「30日」と「29日」になる順番は年ごとに変わる。 しかしこの「太陰暦」をこのまま使うには問題があった。季節が暑くなったり寒くなったりする時期は、地球が太陽を1周する日数(太陽暦の一年)の間で決まる。しかし「太陰暦」の一年は、地球が太陽を1周する日数よりも約11日短い。これをこのまま使えば暦と季節はずれを生じ続け、たとえば暦の上では春のはずが実際の季節はまだ真冬ということになりかねない。そこでこうしたずれを防ぐため、「太陰暦」の1年を13か月にする方法が多く取られた。1年の日数を1か月分増やすことによって、暦を遅らせたのである。そして再び暦と季節がずれを起こせば、また1年を13か月にする。本来の12か月のほかに挿入された「月」のことを「閏月」と呼び、「○月」の次の月を閏月にする場合は、その月のことを「閏○月」と呼ぶ。 世界で最も古くから「太陰暦」を用いていたのは、メソポタミア文明をつくったシュメール人であるが、彼らが暦と季節のずれをどのように正していたのかは明らかではない。紀元前2000年ごろのバビロニアでは太陰太陽暦を用いていたが、暦と季節のずれに対しては当初、適当に日や閏月を足して済ませていた。やがてバビロニア人は、19年のあいだに7回、閏月を暦に入れるとほぼ誤差なく暦を運用できるメトン周期の原理に気付き、これに沿って閏月を暦に入れるようになった。メトン周期とは、地球が太陽の周りを19回めぐる日数(太陽暦の19年)は、月の満ち欠けによる235か月(太陰暦の19年と7か月)の日数とほぼ等しいというものである。「メトン」とはバビロンでこの原理を知りギリシアに持ち帰った天文学者メトンの名に由来する。 このメトン周期の原理は世界各地でも知られるようになり、古代中国でも殷の時代には天体を観測して暦と季節のずれに注意し、閏月が必要になれば十二月の次にひと月たして13か月にしていたが、春秋時代にはメトン周期の原理に基づいて閏月を暦に置いている。古代ギリシアで使われた暦も、暦法にこのメトン周期の影響を受けたといわれる。 なお新バビロニア王国の暦法はバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれ、現在のユダヤ暦に引き継がれている。しかしイスラム教が広まった地域では、公式な暦としては純粋太陰暦であるヒジュラ暦が、準公式・非公式な暦としては太陽暦(イラン暦、ルーミー暦など)が用いられるようになり、ユダヤ人社会を除く西アジアで太陰太陽暦が用いられることはなくなっている。
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