古代における伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 04:34 UTC 版)
日本での六朝楷書の受容は、中国側では隋末から唐代初頭に当たる飛鳥時代から奈良時代のごく初期、一部で北碑のような実際の書蹟を経ない間接的な形で行われていたと考えられている。 事実、大化2年(646年)の「宇治橋断碑」、「日本三大古碑」として有名な文武天皇4年(700年)の「那須国造碑」、和銅4年(711年)の「多胡碑」などは、六朝楷書に極めて近い雄渾な楷書の碑である。特に「多胡碑」は鄭道昭とよく似た円筆の書である。また推古天皇23年(615年)筆の「法華義疏」も行書ではあるが、六朝楷書の意が入っているといわれる。 このように六朝楷書の影響が見られるのは、大陸文化の伝達経路が長いこと朝鮮半島経由であったことが大きく関わっている。流入して来たのは直接的には百済の書法であったが、朝鮮半島は中国大陸の北側に接続しており、直接的に北朝との接触があったため、その文化は自然と北朝寄りとなっていた。つまり朝鮮半島を通じて、六朝楷書の書法が間接的に伝わったのである。 一方、この時代には遣隋使や遣唐使により大陸との直接的な文化交流も開始され、南朝の伝統を受け継いだ唐代の書法も流入していた。そのためこの時期においては、六朝楷書と唐の書法=北朝系と南朝系両方の書法が並立していたと考えられている。 しかしこのような南北並立状態は、遣唐使が回数を重ねて唐の文化が移入され、日本文化が唐風に傾くうち、次第に南朝系の唐代書道の方が優勢となって自然消滅してしまった。かくして日本での六朝楷書の系譜は一旦途絶えることになる。
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