古代におけるセンテナリアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 00:53 UTC 版)
「センテナリアン」の記事における「古代におけるセンテナリアン」の解説
いわゆる古典古代におけるセンテナリアンの存在が史料から示唆される。なお、一般に、過去を対象にした統計は財産や権力を有する集団の属性が普通の人々の属性よりも強く反映される。 紀元前400年における平均余命は、わずか30年ほどと推定されているが、Grmek および Gourevitch の推測によれば、古代ギリシアでは生後5年を過ぎた子供は(すなわち当時乳幼児期に一般的だった疾患をすべて生き延びた子供は)比較的高齢まで生存することが充分に見込めたという。 古代文明を対象としたある統計では、古代ギリシアの男性は平均で45年生き、女性は36.2年生きたとしている(サンプル数・男性91、女性55)。注目すべきことに平均余命の男女差が現代と逆になっているが、これは当時の出産の死亡率が現代よりもずっと高く、女性の平均余命を押し下げているためである。また平均的な市民にとって衛生や食生活(いわゆる地中海食)、運動に気を配ることは一般的だったが、古代ギリシアの市民は実質的に全員に兵役が課されていたことから現代にくらべて負傷することが多く、このことは男性の平均余命をさげている。 3世紀半ばの哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、ある程度信頼できるセンテナリアンについての記述としては最古に類するものを残している。ディオゲネスによると、前2世紀の天文学者ヒッパルコスは、原子論を唱えたデモクリトスが確かに109年生きたとしているという(前470/460年頃 - 前370/360年頃)。古代におけるデモクリトスについてのその他の証言もすべてデモクリトスが少なくとも90年以上生きたとしているようである。しかしこの長寿は、90年以上生きた同時代の他の哲学者にくらべて劇的に突出していたわけではなかったらしく、そのような哲学者には、例えば、クセノパネス(前570/565年頃 - 前475/470年頃)、懐疑論の祖であるピュロン(前360年頃 - 前270年頃)、数学者・天文学者のエラトステネス(前285年頃 - 前190年頃)がいる。デモクリトスのケースは史料に基づくことから、寿命が154年とも157年とも290年ともいうエピメニデス(前7世紀から前6世紀)のような例とは区別される。 古代ギリシア・ローマ以外でも、多数の歴史的人物が100歳を超えて生きたとされる。エジプト学者の説くところによると、第6王朝のファラオであるペピ2世は100年以上生き(前2278年頃 - 前2184年頃)、治世は94年に及んだという。もっともこれには議論があり、治世は64年であったとされることもある。また、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世に第1回ニカイア公会議の招集を決意させたコルドバのオシウス(英語版)が102年生きたと伝えられているほか、ドイツのベネディクト会士ベルノルト・フォン・コンスタンツ(英語版)が著した『年代記』1097年の条には、エステ家の祖であるアルベルト・アッツォ2世・デステの死が「すでに100歳を超えて」いたとの注釈とともに記されている。結論としては、古代におけるセンテナリアンは非常に稀だったにしても存在しなかったとは考えられない。 老年学を専門とするジェロントロジー・リサーチ・グループは年齢に確証がある史上初のセンテナリアンとしてノルウェーのエイリッフ・フィリップセン(ポルトガル語版)(1682年-1785年)を認定している。フィリップセンは後に101歳、102歳を初めて迎えた人物にもなる。
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