司教聖別
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1981年1月1日、范司教は徐水県安荘村の熱心な青年安樹新の学識の不足を顧みずに彼を司祭に叙階し、同年の枝の主日には、范司教は清苑県田各荘村のサレジオ会修道士蘇志民も司祭に叙階した。范司教は「現階段で我々は完璧な神学校を持つことは出来ず、我々の神父も聖トマス・アクィナスと同じように学問を究めることは出来ない。だが、我々の司祭は皆聖ジャン・マリー・ヴィアンネのような聖徳を備えている。知識は最も重要なものではなく、ただ德行が首位を占めるのである」とした。さらに、范司教は「知識が足りなくても、叙階された神父はまだ再び学べるが、品行方面では曖昧であってはならない。これはその時代とその特殊な環境下の招命に関わる指導原則である」と語った。 この後、正定教区神父の賈治国・易県教区神父の周善夫・天水教区神父の王弥禄をそれぞれ正定教区・易県教区・天水教区の司教に聖別した。並びに賈司教に趙県教区神父の閔慶昌を司教聖別するのを託した。連絡が不便なため、范司教の行動はローマ教皇には指示を請わず、事の後に自分で私的に司教を聖別した事情を教皇庁に報告し、処分を受けるという意思を示した。教皇ヨハネ・パウロ2世は范司教を処分しなかったばかりか、書簡で彼に特権を授け、「一切の事は、貴方が先に処理を決め、その後に私に取りまとめて報告すればよい」とした。。この後、河北省の地下カトリック教会は迅速に拡大し、1995年末までに河北省の地下司教は累計で27名(その内の13名は故人)に達した。愛国会がコントロールする自選自聖の非合法の司教は僅か10名(その内2名は故人)であった。地下カトリック教会は保定・張家口・石家荘・邢台・邯鄲5市の大部分の聖堂を押さえ、その配下または影響下にある信徒は150万人以上に達した。 1982年4月13日、范司教は司教を聖別し、教皇に手紙を書いてその指示を願ったことにより、三度目の逮捕をされた。そして「裏で外国と通じ、私的に司教を聖別した」という罪で十年の刑の判決を受け、河北省第二監獄で刑に服した。 1987年11月17日、政府は国際社会の世論に迫られ、81歳の范司教を仮釈放して彼を保定市の旧道大堂に軟禁した。
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