司教時代
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異端審問官の任を解かれた後は、トゥイの司教に叙任された。しかし、実際にはアヴィニョンの教皇庁に勤めていた。この間に、ギーは自身の著作をヨハネス22世に献呈している。1324年7月にロデーヴの司教に転任を命じられ、10月7日に着任した。ロデーヴは異端とされたベガン派への弾圧やそれに伴う司教区内の協会の統制が緩んでいたため、荒廃していた。着任後は司教区内で様々な改革を実施した。着任するとすぐに、司教区内を視察して回り、市民の要求した執政制を拒否した。そして翌1325年に司教区会議で聖職者の規則を細かく定め、3月24日にはサン・ジュニエス墓地に14歳以上の男子940人を招集して服従を誓わせた。また、高等法院からマラパーガ使用権(収監権)を獲得し、司教による債務者の人身拘束を可能とした。加えて、昔に授与された特許文書を理由に司教区内での国王課税の中止をフィリップ6世に訴え、これに成功している。この間に、ギーは通称「緑表紙本」と呼ばれ全5巻からなる『ロデーヴ教会文書集』をまとめた。最初の4巻は土地財産や特権に関する書類をまとめたもので、第5巻は権利の書と名づけられ、国王の発行した証書や彼の特許状やロデーヴ教会の歴史が書かれている。このように、教会を中心とした秩序の形成に努めた。しかし、問題もあった。ギーはハンセン病患者の迫害に加担し、無実の罪で彼らの財産を差し押さえたことがあった。これについては、後に国王の命令で復権と財産の回復が命じられた。 1331年12月30日に、ロデーヴ司教のまま死亡。遺体はリモージュの説教僧院に葬られた。この死去について、『ベルナール・ギー睨下略伝』によれば、ギーの死亡前日に、リモージュの会堂に不思議な光が出現し、大祭壇で消え、その翌日にギーが死んだ知らせが届いたという。この本自身は、ギーの甥であるピエール・ギーが書いたと考えられており、かなりの誇張が含まれていると言われている。
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司教時代
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1158年、ヴァルデマー1世は自らが王位に就いた同年アブサロンをロスキレ司教に任命した。1。以降アブサロンはヴァルデマー1世の第一顧問となり、以後ヴァルデマー1世、クヌーズ6世、ヴァルデマー2世の3代に渡るデンマークによるバルト海支配の方針の発案者となった。 アブサロンは、後にポメラニアと呼ばれるバルト海沿岸部に拠点を持ち北海に出没するヴェンド人2の海賊の掃討を目論み、しばらくこれに注力した。ヴァルデマーの継承時には3分の1に減ってしまっていたデンマークの海岸を海賊は要領よく荒らしていた。 ロスキレ大司教エスキルがフリードリヒ1世に拘禁されていたため王自らが任命した。しかし教会の叙任権を侵害する行為であった為、以後1世紀に渡る叙任権闘争の原因となった。 ドイツ人の東方植民に圧迫された彼らはヴァルデマー1世の先世代で起きたデンマークの王位を巡る内紛に乗じ、ロラン島やファルスター島を襲撃し、そこに定住を開始していた。
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