司教団主義
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1964年9月15日、第3会期の冒頭、スタッファ大司教は公会議の議会則第6節第57条に基づき、70人の教父たちを代表して発言を求めたが受理されなかった。 9月21日から9月29日まで、本文は一句節ずつ表決に付された。結果は賛成1624票、条件付き賛成572票(placet juxta modum)、反対42票となった。 11月7日、スタッファ大司教はパウロ6世に宛てた手紙で発言申請の不受理(9月15日)につき手続上の妨害であり、司教団主義の命題という「極端な形式」の利益のためにローマ・カトリック系神学を沈黙させようとしたと告発した(スタッファ作戦 Operation Staffa)。 その間、35人の枢機卿と5人の大修道会総長らは、パウロ6世に宛てた10月18日付けのメモを書き、革新的な教えに関する「憂慮」を表明し、草案が曖昧で多義性を持ち、公会議後に極めて恣意的に解釈される危険性があることの指摘、また考察のため休憩時間と熟考期間を設けるよう要請した。草案の多義性が危険性を含むとは信じがたいパウロ6世は動かず、代わりにスタッファと同調する神学者たちの名前を列挙するよう求めた。挙げられた3人の名前を聞くと、いずれも自らが高く評価する人々であり、パウロ6世はうろたえた。その時、極端にリベラルな教父が文章化し公会議後に曖昧な文章を解釈する方便を綴った書面がパウロ6世の手元に届き、欺かれたと悟った教皇は涙したという。そこで教皇は国務長官を介してオッタヴィアーニに、司教団草案の諸点の表現をもっと正確に述べるように求めた。これが「予備解説的注釈」(Nota explicativa praevia) である。 11月14日、予備解説的注釈が教父らに示された。この注釈が草案に含まれた内容の意味を変えるか変えないかで議論が起こった。第123回総会の初日11月16日から、リベラルな教父たちが「暗黒の1週間」と呼ぶ週が始まった。同日の告知で、公会議事務総長ペリクレ・フェリチ大司教から論争を終らせるため、次の発表がされる。 「教会草案」第3章に対する修正意見に次の解説的注釈を付け、あらかじめ最高権威(教皇)から教父たちに伝えられた。第3章の教えはこの注釈の意向と意味にしたがい説明し、理解されなければならない。 この注釈は『教会憲章』の一部に組み込まれることになる。
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