都市の略奪と破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:03 UTC 版)
「ソビエト連邦による戦争犯罪」の記事における「都市の略奪と破壊」の解説
多くのケースとして、ソビエト赤軍兵士は建物、村、都市に火を放ち、これを消火しようとした者を全て射殺した。例として1945年5月1日、デミンに於いて、ソビエト将兵は町の中心に火を放ち、住民が消火しようとするのを妨げた。市場周辺の歴史的建築物の内、教会の尖塔だけが延焼を逃れた 。赤軍の凶行の大部分は敵地と考えられている箇所だけで発生した。NKVDとソビエト赤軍将兵は1944年、1945年に時折、ポーランド内に於けるドイツの輸送列車を略奪した。 書類での命令は存在しないが、ソビエト赤軍の行動について記述された幾つかの文書が存在する。その内の一つはブダペストに於けるスイス公使館員によるもので、1945年、ソビエト赤軍がブダペストへ入場した時の事を記述している。それは以下の通り。 ブダペスト包囲戦の間とその翌週、ロシアの軍隊は町から自由に略奪を行った。彼らは豊か、貧しいことに関係なくほとんどの居住地へ入っていった。彼らは望んだもの全て、特に食料、衣類、貴重品を奪い、ありとあらゆるアパート、商店、銀行そのほかを数回、略奪した。持ち出すことのできない家具や大きな芸術品はしばしば破壊された。多くの場合、略奪の後、家には火を放たれ、そこには何も残らなかった。銀行の金庫は例外なく空に-イギリス、アメリカのでさえ-され、見つかったものは全て奪われた。 ソ連により任命された初代シャルロッテンブルク区長ヴァルター・キリアンはシャルロッテンブルク地域に於ける赤軍将兵の広範囲に及ぶ略奪を報告した。 個人、デパート、商店、アパート・・・全て闇雲に襲われた。 ソビエト占領地域に於いてドイツ社会主義統一党員はソビエト赤軍将兵による略奪、強姦がソ連に対して、また、将来の東ドイツに於ける社会主義体制に対してドイツ人が反発する可能性があるとスターリンに報告した。スターリンはこれに激怒、「私は赤軍の栄誉を辱める者を容赦しない」と答えた 。 そのため、全ての証拠-例えば略奪、強姦、放火された町、農場、写真、その他の文書等-はその後、東ドイツの全てのアーカイブから除去された。
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